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[1321] 無題 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/22(Tue) 20:23  

ARさん、了解しました。
せっかくなので、ひとつだけ書いて置くと、
実は戦前の軍の予算も統帥権に入ってしまう、という面がありました。

第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

の一文があるからで、装備と人員を決定できる、という事は、
事実上、軍が(天皇は直接統治しないから)予算の決定権を握る、という事なのです。

くさのさん、パゴニスさんの自伝とはマニアックな(笑)…。
中将の肩書きをつけて出版したのなら、よほど少将時代のトラブルに腹がたってたんんでしょうねえ(笑)。
現地で中将になってしまった人ですから。

ちなみに、湾岸戦争の兵站システムも、あれは電撃戦の拡大コピーでして、
補給所を各地に作ってそこを起点としてネットワークを構築する、
というのはツァイツラーが例のジェリ缶システムと同時に展開したやり方なのです。
ただし、電撃戦のときは、ロンメル、グデーリアンの速度に追いつけませんでしたが(笑)。

とりあえず、補給戦まで説明したら終わらなくなるので、そこら辺りは端折らせてもらう予定です…


[1320] ガス・パゴニス中将も忘れないでね 投稿者:くさの 投稿日:2013/01/22(Tue) 09:04  

湾岸戦争では、海兵隊の水陸両用部隊を囮にしてイラク軍主力
を東方に引きつけ、裏をかいて機甲部隊が砂漠を一気に突破し
たわけですが、そのために進撃予定コースに事前に補給デポを
構築するという、まるで秀吉の美濃返しみたいなことをやって
います。

最近パゴニス中将の自伝が出ていますが、この補給作戦に関し
ての日本で最初にまとまった資料は、「日経ロジスティクス」
という雑紙に記載されました。これを読んだときはぶったまげ
ましたよ。戦闘部隊より先に「後方」支援部隊が進出するわけ
ですからね。


[1319] そうですね 投稿者:AR 投稿日:2013/01/21(Mon) 21:57  

アナーキャさんに整理していただいたので、(お手数おかけしました)
どうしましょう。なるべく簡単に述べます。

五反田猫さん

>結論は、挑発行為や、小さな侵略の積み重ねが、結局はトンでもない結果に繋がるかの体験的歯止めの有無が、
戦前と戦後の違いであり、それを体制のみに帰するのは問題の本質を誤ると思っています。

たしかに体験的歯止めは大切だなあと思いますし
体制だけの問題ではないというのは確かにその通りですね。
あと、私の書きようが悪かったので
中国にしても、政治家のほとんどは政経分離と想像してます。

軍が主体と書いたのは、民意に押されて行動してるのではなく
極論すれば、民意が支持しなくてもやったのではと、思ってのことです。
予算がつかないのでは、と言われると、私も勉強不足なので
そのあたり勉強し直します。

明治から書いたのは、初等教育と新聞が、インテリならぬ庶民には影響が大きく、
明治以降小学校に通った人たちが育って、大正昭和の社会の中核として民意を形成したのではと思うからです。
軍縮期に軍が反感を買っていたというのは、その頃の軍の横暴が嫌われたのかもしれませんね。
ただ、軍に対する尊敬や戦争を支持する考えは消えたわけではなく、反感がおさまれば復活したのではと。

結局、民意というものをきちんと考証するのは私には無理なのですが。
民意について考えることの大切さも教えていただいたように思います。

こんなところで私の出番は終わります。それでは失礼します。



[1318] 了解 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/21(Mon) 21:19  

それが五反田猫さんの意見である、という事ですから、それでよろしいのではないでしょうか。
客観的事実から、恐らく正しいと言っていいと思われる結論を導き出すのは不可能であろう
“民意”というあいまいな内容を含みますから、ここまで、という形になると思います。


[1317] とりあえずのまとめ 投稿者:五反田猫 投稿日:2013/01/21(Mon) 21:00  

管理人さま せっかく整理に入って頂いたので、整理頂いた方向に絞りたいと思います。
前提条件として、昭和初期から対米対戦の時期を想定します。
時代の流れに沿って説明してみましょう。


<満州事変辺りまで>
もともとの私の意見は、社会体制のみに原因を帰せられず、
当時の政党政党の議会体制では民意がなければ軍事行動の予算もつかず、勝手は出来なかったという事です。

体制の変革は、政友会が大正14年に陸軍の田中儀一を総裁に引っ張り込んだあたりからです。
その意図は田中が組織した在郷軍人会の票が魅力的だったからです。
軍人に借りが出来れば、当然 配慮は必要ですから軍事予算は、この辺りから増加が可能になり、流れが変わります。
軍人だろうが投票行動は可能ですから、それも立派な民意です。
ただ誤解したらいけないのは、軍人を引き込んだのは政党側であって、軍人から積極的に入れろと政党に圧力を掛けていない点です。

<満州事変から対中戦争(支那事変)>
現場が政府意向を尊重せず勝手に暴走で問題組織であった点は、何ら意見の齟齬は無いと思います。
ただし議会政治の元では、議会承認の予算が付かなければ軍事行動は出来ず、現代と大きな違いはありません。
この点をもって、私は体制のみに帰せられないと言っています。
それを可能としたのは、機会主義の軍人官僚の「領土獲得の成功」です。
民意は、それを是としたから予算がつき、それを例えれば中韓から見た尖閣・竹島の如くと想像します。
それは勝手な想像ですから賛否は問いません、例として不適切とはそういう意味です。
ノモンハンの如く敗戦が続けば、民意は得られなかったと思います。
もう一つ 強い支持を受けたのは「在留邦人の保護」です。
今では忘れられてるが、当時 大問題になり日本国民が憤激したものに。中村大尉殺害事件、通州事件などがあります。
これらの事件による日本人殺害で、暴支膺懲の国民大会を開いたのは、日本国民です。
総意とは言いませんが、十分な民意が形勢されていたと思います。

私は、特にこれらの行動が異常とも特殊とも、偏向教育によるものと思いません。
なぜなら、一応 民主国家のはずの韓国でも、今 似たような事が起きています。
現代日本国民と、当時の日本国民で何が違うと言えば、その結果が国家戦争に繋がったという体験の違いです。
その体験の有無が、感情的な盛り上がりは危険な戦争に繋がると「体験的に理解」出来るからです。
欧米人でも、同様に過去の隣国との戦争で、嫌というほど体験したから、やったらまずい線が判るのではと思います。
それがドイツ軍がダンケルクでピタリと止まれる理由と想像しています。
結論は、挑発行為や、小さな侵略の積み重ねが、結局はトンでもない結果に繋がるかの体験的歯止めの有無が、
戦前と戦後の違いであり、それを体制のみに帰するのは問題の本質を誤ると思っています。



[1316] 主観問題 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/21(Mon) 14:49  

なるほど。

一応、ここの管理人として間に入らさせていただくと(笑)、
中国・韓国の話については白紙にする、という事なら、
後はARさんの考え方と五反田猫さんの考え方の食い違いが残るのは、
日本が対中国、対アメリカの戦争に至った原因についてですね。
この軍部(統帥権)の暴走は何が原因だったか、という点について、五反田猫さんは、

●当時の世論が戦争遂行に強い後押しとなっていた。
 よってあれは国家全体の意思、すなわち国民の民意であり、
 一種の集団ヒステリーとでも言うべき国民感情が政府(行政権)を動かした結果である。
 軍だけの暴走という問題ではない。

とされ、対してARさんは

●その国民の民意は、そもそも軍がマスコミや教育機関を操作して世論を誘導した結果ではないか。
 それは民意と言っても、軍が統制した意向に従った、強制されたものではないか。

といったところでしょうか。

となると問題は、国家全体の民意、世論が果たして、
国民の自主的な総意だったのか、軍、あるいは右翼方面による統制の結果だったのか、
という点に絞られてくるように思います。

ここで、本来なら革新官僚、という怪しげな連中を無視するわけにはいかないのですが、
話がややこしくなるので、ここではとりあえず、国民の民意だけに絞りましょう。

となると、この問題に決着をつけるには、当時の民意、世論と言うものが、
どういうものだったか、という点をはっきりさせる必要があります。

が、既にこの問題からして実は極めて難問でして、
当時の日本に民意と呼べるだけのものがあったのか、
という点から考えて行く必要があるのです。

まず、民意の最大の反映と考えられる、衆議院の選挙を考えてみましょう。
民意が反映された、と言えるレベルになるのは、基本的に全青年男子に
選挙権が与えられた1924年(大正14年)の普通選挙法施行以後となります。
ところが、この普通選挙法は、治安維持法の成立とセットになっており(笑)、
早くも、1928年の最初の普通選挙の後から、共産党など無産政党への弾圧が始まります。
さらに、この間も本来は選挙違反の取締りが目的だったはずの
選挙粛正運動がなんだかよくわからない運動になってしまったりしてしまい、
現在の感覚から見ると、果たして選挙結果は民意と呼べるものなのか、というには微妙なところがあります。
そもそも女性に参政権がないですし。

となると、残りはマスコミ、という事になりますが、こっちはさらに定義が難しいです。
例えば1941年(昭和16年)10月17日の朝日新聞は、その社説(有題無題)欄で
「国民の覚悟はできている(中略)待つところは進めの大号令のみ」
と日米開戦をあおりまくってますが(笑)、これを見た街中の人々の反応は、
極めて冷淡だったと、荷風だったか誰かの日記で見た事があります。

民意、世論とは何か、というレベルからして、その定義はかように困難です。
ですので、お二人の論点が客観的に明白な結論を得ることは、事実上、不可能のように思います。

両者が、自分の考えを述べる、というのは健全な状態だと思いますが、
主観的な判断しかできない問題で相手を納得させよう、という事になると、
これは極めて不毛な議論におちいるのが、明らかのように思うのです。

よって、両者がそれぞれの考えをキチンと述べた段階で、終わりにしてしまうのが
一番、建設的な対応だと思いますが、いかがでしょう?


[1315] 修正 投稿者:五反田猫 投稿日:2013/01/20(Sun) 22:04  

>軍人が背広で肩身が狭くて電車に乗れない時代
軍人が背広でないと片身が狭くて電車に乗れない時代という意味です。
大正軍縮から昭和初期には、そういう時代がありました。


[1314] ARさんへ 投稿者:五反田猫 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:55  

せっかくご意見を頂いたので返信させていただきます。

中国の自由化は例えが悪いので取り下げます。
ご容赦下さい。

>感情的民意が日本を戦争に導いたというご意見ですが
>軍の行動があって、それに対して後追い的に民意が賛同したとしても
>主体が軍であることに変わりはないと思います。
何について「主体が軍」だと言われているのか論点が判りません。
軍事行動について言われているならば、軍が主体になるのは当然ですよね。

>また、明治以来の教育(軍や戦争を支持する心性を育てた)や、
>マスコミや右翼の論客(各地で講演活動)の扇動も無視できません。
>また新聞や出版物に対する検閲(情報の偏り)や
>思想統制が行われていたことも考慮すべきでしょう。
>(労働運動・左翼運動に対する弾圧、大逆事件、大杉栄殺害など)
明治、大正、昭和初期で状況は大きく異なります。
ですから時代を明確にしないとお話はかみ合わないでしょう。
私が書いたのは大正から昭和の大敗戦までの軌跡です。
「明治以来の教育」の影響と言われるならば、大正デモクラシー軍縮、
軍人が背広で肩身が狭くて電車に乗れない時代(昭和の始め頃)の説明はつかない気がしますが如何に?
昭和17年くらいまでは、政府が一貫して問題にしていたのは共産主義と、ゾルゲ事件に表れた防諜問題です。
これは英米でも普通にあった政府の管理事項ですが、それを思想統制といわれるのでしょうか?


>日本の場合、偏った民意は偏った国(政治、教育、マスコミ、経済、軍...)
>の産物と思います。
うーん、これはどっちが先か難しい問題ですね。
国が先だと仰るならば、とりあえず上の不明点を明確にして頂かないと議論にならないような気がします


[1313] 考え 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/20(Sun) 20:38  

ARさん、ご配慮いただき、ありがとうございます。

ここら辺りは歴史関係の難しい部分で、事実だけを述べよ、となると年表しか残らない、
という事になってしまうわけですが、逆にさまざまな解釈から多様性が産まれる、
というのは悪いことではないようにも思っております。


[1312] 了解です 投稿者:AR 投稿日:2013/01/19(Sat) 23:13  

アナーキャさん

たしかに水掛け論になりそうですね(汗)

五反田猫さん

あらためて横から失礼しました。
まあ、こんな意見もあるということで読み捨てください。


[1311] いろいろ 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/19(Sat) 22:19  

ヒラオさん、なるほど、キジも有用ですね(笑)。
人類史上、電撃戦が再現されたことは湾岸戦争までないと思います。
マンシュタインの奇襲包囲、グデーリアン&ロンメルの高速OODAループがそれぞれ、
独立して有効に働いたというケースはいくつかありますけども。

ARさん、そこら辺りは主観的な問題が絡みますから、明快な結論は出にくいと思いますよ(笑)


[1310] 手短かにいうと 投稿者:AR 投稿日:2013/01/19(Sat) 21:34  

軍が色々やらかしているのを
国民はあとから(限定された情報で)知った。
民意といっても様々な制限と誘導の中で形成されたものなので
戦争を民意といわれても
という二点です。




[1309] 横からすみません 投稿者:AR 投稿日:2013/01/19(Sat) 21:02  

五反田猫さん

横から失礼とは思いますが、

中国共産党は民主国家を目指してないと思います。
いかにして共産党が生き延びるか、が目的で
経済発展も改革開放もその手段でしょう。
言論統制や格差など様々な国民の不満がはけ口を求めていて
押さえすぎると爆発して反共産党暴動になるのが怖いから
反日暴動でガス抜きをしてると思います。

感情的民意が日本を戦争に導いたというご意見ですが
軍の行動があって、それに対して後追い的に民意が賛同したとしても
主体が軍であることに変わりはないと思います。
(民意が軍を増長させるのに一役買ったとはいえるでしょうが)

また、明治以来の教育(軍や戦争を支持する心性を育てた)や、
マスコミや右翼の論客(各地で講演活動)の扇動も無視できません。
また新聞や出版物に対する検閲(情報の偏り)や
思想統制が行われていたことも考慮すべきでしょう。
(労働運動・左翼運動に対する弾圧、大逆事件、大杉栄殺害など)

日本の場合、偏った民意は偏った国(政治、教育、マスコミ、経済、軍...)
の産物と思います。


[1308] 桃太郎の戦術 投稿者:ヒラオ 投稿日:2013/01/19(Sat) 00:59  

答えはこんなところではなかろうかと。

http://bokete.jp/boke/2472042

そんな事はともかく、OODAループおよび電撃戦については、また改めて質問させてください。
「電撃戦」って、けっきょく第二次大戦のその後の戦いの中では(とくに東部戦線とか)再現されなかったんだろうか…とか思ってはみるものの、どうも頭の中でまとまらなくて…。


[1307] 民意 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/18(Fri) 21:40  

kazzさん、さすがにそこまでは言ってなかったような…。
そもそも失敗したとは全く思ってないんですよ、あの人(笑)。

シュワーツコフの勝利の定義に一致してなかっただけだ、作戦は成功だった
と言うのが彼の言い分ですが、そんなわけあるかい、というのをこれから見て行くわけです。

五反田猫さん、そこら辺りはなんとなく理解できますね。

戦前の日本の場合、マスコミ、特に新聞は極めてタチが悪いので、
ここら辺りは十分、考慮する必要があると思います。
その一方で、永井荷風のように、そういった風潮に抗い続けた文化人も居るので、難しいとこなんですが。


[1306] 感情的民意 投稿者:五反田猫 投稿日:2013/01/18(Fri) 20:06  

管理人さま
お相手頂き、自分でも整理が出来ました。
私が言いたかったのは戦前の日本は、体制の問題だけでなく、国民が近代国家としての振る舞いに不慣れで、
合理性ではなく感情的だったように思います。
だから政府は戦争拡大に反対だろうが、反乱に厳しい処罰をしたかろうが民意の感情を反映せざるを得ませんでした。

判りやすい例を挙げれば、現代の隣国 中国や韓国の国民の振る舞いです。
反日感情が盛り上がっても、中国政府の本音はビジネスと政治問題は切り離したい。
にもかかわらず、表立っては言えないから民意を汲んで、デモや日経企業への暴力を許容するしかありません。
現在の中国は民主国家を目指していますが、民意を考えればチベット問題も今更妥協できません。
韓国では竹島問題を日本と話し合おうと言えば選挙で惨敗しますから、政府は景気の良い振る舞いをします。
韓国を軍事国家といえるかは微妙ですが、民意が感情的なら、日本からみた不法占拠を実行します。

こうした感情的バイアスがかかっていたのが、戦前日本の国家判断に見られ、それは「軍事国家」という体制とは
別次元の、戦争へ国家を向かわせたものはと思っています。むしろ国家体制は感情的民意の結果と思っています。
どんな国でも感情的民意は存在しますが、それを国家方針に反映するか、合理的結論を優先できるかがまともな政府の境目かもしれません。


[1305] フレッド・フランクスJr. 投稿者:kazz 投稿日:2013/01/18(Fri) 18:14  

トム・クランシーとの共著「熱砂の進軍」で、シュワルツコフに不当な扱いを受けたからうまく行かなかったというような事を言ってましたね。


[1304] いろいろ 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/17(Thu) 22:20  

ARさん、何らかの参考になったのなら何よりです。
私にあんまり難しい話は無理ですから、そこら辺りはご容赦を(笑)。

ヒルネスキーさん、私の知る限り、日本だけでなく、
多くの国で憲兵(MP)は普通に軍属のはずですが。
ただイギリスにはMinistry of Defence Police という
ちょっと変わった組織がありますが、これも成立は戦後だったはず。

五反田猫さん、そうなると後は軍事政権の定義の問題、でしょうね。
個人的には文民統制が外れた段階で、それはすでに軍事国家である、と考えています。
日本の場合、陸軍大臣と海軍大臣が軍人で、そもそもは刑務所の所長が前科10犯みたいなもんですから、
そのような組織に加えて、他の閣僚まで軍人になってしまっては
まともなシビリアンコントロールは期待できないように思います。

ただし、ここら辺りは明確な定義が難しい部分ですから、
各個人の考え方、という事になるのではないでしょうか。


[1303] Re:[1302] 大命降下 投稿者:五反田猫 投稿日:2013/01/17(Thu) 19:48  

誤記修正です

> 西園寺公没後は「憲政の常道」(第一党に大命降下、それが失政で倒れた場合は野党第一党へ)が一般解釈になったのではありませんか?

515の時は西園寺公は生きておりますので、「元老院の意思無き場合は」に修正します。
誤記ご容赦ください。


[1302] 大命降下 投稿者:五反田猫 投稿日:2013/01/17(Thu) 19:42  

管理人様

仰る通りで私は戦前の体制は国民の支持があったと思っています。
私の中では軍事政権とは銃剣による圧力で選挙と無冠に獲得された政権と思っているので、
戦前の日本は軍事政権とは思っていません。
但し機会主義の軍事官僚の暴走を止められない体制だったのが問題と思います。
これが、軍事的には疑問だろうが、ダンケルクでぴたりと止まれるドイツ軍との差だろうと思います。

>大臣の任命
確かに元老が減ってきて法律上の問題になりました。
西園寺公没後は「憲政の常道」(第一党に大命降下、それが失政で倒れた場合は野党第一党へ)が一般解釈になったのではありませんか?
但し515で犬養首相暗殺後は、政友会の後継総裁となった鈴木喜三郎に大命降下はされず、海軍の斎藤実が首相になりました。
この理由は世論への配慮だとの説があり、私も同意見です。
管理人様が悩まれるように大命降下には明確な文書規定が無いルールがあるようで、判断の基準を変えれば違う解釈もありえると思います。

とは言え、戦前世論が反映された証拠としては、226、515裁判への山のような国民からの助命嘆願やら、
中国戦線の勝利報道への提灯行列を考えれば、「草の根軍国主義」さもあらんと思います。


[1301] 無題 投稿者:ヒルネスキー 投稿日:2013/01/17(Thu) 14:14  

日本の場合は諸外国と違って憲兵隊が内閣ではなく軍隊に属する構造で
軍隊を統制出来なかったからああなったというのを本で読んだ事が。
現在は在日アメリカ軍がいるので力の均衡が取れているとも。




[1300] 感謝 投稿者:AR 投稿日:2013/01/17(Thu) 01:20  

アナーキャさん

詳細なご解答ありがとうございます。
本当にどこでどうすれば良かったのだろうと思うときがあります。
やはり滅びるしかなかったのかな、とか。

今回、他の方とのやりとりも含め
まとまった見解を読ませていただいて大変に参考になりました。
いつかアナーキャさんが書かれる日本や西欧の近代史を
読んでみたくもありますね♪



[1299] 選択法 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/16(Wed) 23:32  

ご意見を拝読する限りでは、五反田猫さんの述べるところと、
私の考えで異なるのはただ1点、戦前の軍国主義は国民の意思によって、
合法的に選ばれた政権と言えるか、という点になるように見受けられます。

この点についていえば、そもそも、戦前の首相を含めた国務大臣の選定が、
国民の選択といえるのか、という部分が絡んできます。

再び明治憲法(大日本帝国憲法)を見ると、国務大臣については、

第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス

の1項2文のみで、その選出方法に関してはなんら記述がありません。
これは総理大臣に関してすら同じことで、実は私もどういった法的根拠に基づいて
戦前の内閣総理大臣が選ばれ、国務大臣が任命されていたのかよくわからないのです(笑)。

実際の流れは元老が居た時代は彼らの推薦に基づいて天皇が任命していたようですが、
元老が西園寺ただ一人になったあたりからは、これまた選出基準があいまいな、
重臣と呼ばれるメンバーの密室談合(重臣会議)で任命されていたようです。
そもそもこの元老制、重臣会議ともにその存在の法的根拠が不明であり、
ここで指名された総理大臣が国民の民意を反映したものか、は極めて微妙なように思います。
そこから組閣される内閣も、同じ穴のムジナでしょう。

さらには、昭和10年代入ると、この重臣会議すら無視され、ごく一部の政府関係者の談合で、
次の内閣総理大臣は指名されており、こうなるともう、民意も何もありません。
いざとなったら殺すよ、という軍の圧力が効いてる政治家に、まともな選択を期待する方が無理でしょう。

なので戦前の軍事半独裁体制が国民の支持を受けたもの、と言うのは少々厳しいように思われます。

ただし、再度確認しておきますが、マスコミが軍国主義への動きを煽ったという事実は確かで、
この点においては、軍は強い支持を得ていた、という部分はあるでしょう。



[1298] 日本の場合 2 投稿者:五反田猫 投稿日:2013/01/16(Wed) 19:46  

管理人さま お相手有難うございます。

日本の参謀本部が勝利とは程遠い、空前絶後の大敗北をした駄目組織という点ではご意見は一致していると思います。
ならば、その組織の実態と敗因を掘り下げるのが、後世の役割と思っています。 その意味でOODAループをまともに廻せなか

ったというのは大変参考になっています。
私自身の結論は、徹底的な官僚組織が指導する立場になったから、組織あって国(国家戦略も)なしで、暴走・自壊し、国民を巻

き込み大惨事になったと見ています。それは良かれ悪しかれ国家戦略を持った西欧と、単なる機会主義者の軍事官僚が政治の中心

にいた日本との差だと思います。

帝国憲法と議会でも、軍縮を実現したし第一次上海事変は議会の意思を反映し停戦しています。
戦前でも国会で予算がつかなければ戦争は出来ません。
しかし、これは軍部官僚にとっては悔しい限りで、その対抗策として統帥権や現役大臣性など対抗手段を編み出します。
ドイツではヒトラーが止まれと言えば大勝利目前だろうが軍隊は止まります。
これはチャーチルでも、スターリンでも同じで、それが統帥だと思います。
指導者の現場介入により軍が勝利を逃すことがあろうが、指導者が止まれといって止まるのが当たり前の姿です。
これがなければ近代国家では無いでしょう。

陸海軍官僚が統帥権を天皇への侵犯といったのは建前でしかなく、現場の勝手(開戦や派兵)をして恥じないのですから、国会で

持ち出したのは軍事官僚の建前闘争と思っています。

軍人政治家の嚆矢は田中儀一ですが彼は銃剣で国民を脅して首相になったのではなく、在郷軍人会の票が欲しい政友会が党首とし

て引っ張り込んだのが事実と思います。例えて言えばヒゲの隊長が参議院議員になっても不思議に思われないのと同程度の転進と

思います。 その後も軍人の政界入りはありますが引っ張りこんだのは政治家で、その後の大政翼賛会も銃剣の脅しで出来たより

は、国民の危機感の産物と思います。

226,515のテロルは下級将校によるもので、政治改革では無く、軍人官僚の主流派争いではないでしょうか?
そこには強い思い込みはありますが明確な政治ビジョンも戦略も無く、226の要求もみれば軍人の進退を要求しているだけです

。 反乱行為=統帥権干犯の裁判で助命嘆願を熱心に出したのは、「純粋な将校」が好きだった国民だったのです。

何が言いたいかと言えば、日本の軍事政権は銃剣で生まれたのではなく、政党政治の結果であり国民多くは異としていなかった点です。




[1297] 幼さゆえ 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/16(Wed) 19:29  

とりあえず、明治期の軍部と昭和期、というか世界恐慌後(1929年)以降の
軍部は別物と考えていいと思います。
日露戦争のときの軍部と満州事変以降の軍部を比べるとよくわかるでしょう。

端的に言ってしまえば、明治期の軍部はキチンと天皇を最高司令官として見ていました。
明治天皇崩御後に後追い自殺してしまった乃木将軍は極端な例ですが、
それでも、基本的には神聖不可侵に近い、絶対的な存在と見なしています。
ただし、これは神聖な存在である天皇自らが軍を率いて戦う、という事ではなく、
多分に精神安定剤的なものであり、実質は、大山、児玉のような、
優秀な人材が軍を指導する、という大前提があります。

対して、昭和の軍部は天皇を水戸黄門の印籠といった存在として見なしています。
自分たちの行動を正当化する手段に過ぎないのです。
そもそも、統帥権、帷幄上奏権があったところで、天皇がダメ、といったら
どうしようもないわけですから、彼らの暴走には、天皇は直接統治を行わない、
我々の言いなりにできる、という大前提の目論見が存在します。
実際、陸軍の暴走を苦々しく思っていた昭和天皇に対し、
軍部が「陛下(昭和天皇)は学者すぎる」といった発言をしてたりします。
これを乃木将軍が聞いたら、卒倒してしまうでしょう。

その昭和の軍部の暴走は、1929年の世界恐慌に始まったと考えていいでしょう。
そして、困った事に(笑)、その行動派ほぼ純粋な善意から出ています。
軍部で政治を握って利権でウハウハ、という発想ではないのです。

1929年(昭和4年)の大恐慌は、日本においても暴威を古い、
大量の失業者と、社会不安をもたらします。
が、当時の日本の政治は未だ藩閥政治の悪癖が残り、
さらに汚職などの問題も多く、大恐慌の対策は無に等しかったと言えます。
日本にはルーズベルトは居なかったのです。
この結果出てくるのが、昭和維新と呼ばれる右翼団体の運動です。

この運動は、いろんな解釈があるのですが、基本的には政党政治の否定、
天皇親政への政治形態の変換を目指していたようです。
ここで注意しなくてはいけないのは、当時の政党政治というのは、
極めて幼く、現代のそれとは別物に近い、という点です。

このため、昭和維新の活動が政党政治と同時に財閥まで否定してる事からわかるように、
基本的には政治の腐敗の追放を狙ったものだったりします。
社会正義がどちらにあると言われると、どっちもどっち、なのです。
少なくとも昭和維新が私利私欲にまみれた
独裁恐怖政治を目指していたわけではありません。

ただし、昭和維新運動の主な活動手段は政府、財閥系関係者の暗殺であり、
純粋な人殺し、テロリズムですから(ゆえに維新なのだ)これはこれで軽く狂ってます。
ほんとにもう、政府も反政府側も、どっちもどっちとしか言いようがありません。
国家自身が幼かったのだ、と言う他ないでしょう。

で、ある意味、純朴ともいえるこの運動に大きな影響を受けたのが
当時の軍部の若い将校たちでした。
(運動のほうから、積極的に軍部に勧誘をかけたらしいが)
初期にはむしろ海軍のほうがこれに強く影響され、日本を救うのだ、
という旗印の下に、若い将校たちがこの運動に賛同し、
最終的には、政治家はダメだ、我々の手で日本を変えるのだ、という考えに行き着きます。

この結果が5.15事件、そして2.26事件へとつながり、軍部への恐怖から、
政治は完全にその支配下に置かれる事になるのです。

このように純粋に善意から出た行動ではあるのですが、その基本には俺らなら日本を救える、
という根拠の無い軍部によるウヌボレがありました。
これは一種の自己陶酔ですから、まあ、ロクなものではなく、その結果は
ご存知の通り、日本は事実上、滅びる事になるのです。

といった点を踏まえて(笑)、ご質問にお答えするなら、
少なくとも昭和5年以前までは、政府は軍をコントロールできていました。
ただし、西欧に比べて欠陥がないか、というと欠陥だらけでした(笑)。
そもそも、立憲君主制という体制に全く不慣れであり、
あまり国そのものが幼かったように思います。
大恐慌以後の日本をどうすれば正しく導けたのか、という点は、
私には何年考えても、正しいと思える解答が見つからないのです。


[1296] 質問です 投稿者:AR 投稿日:2013/01/16(Wed) 00:14  

ずっと以前に猫が神様という投稿した者です。
質問があって久々のカキコ失礼します。

私は単純に以下の様に思ってました。
薩長が軍事力で日本を支配した結果、軍事色が強い政権が出来た。
(東南アジアなどによく見られた開発独裁)
憲法制定後も軍の発言権が強く、三権からの独立性も強かった。
軍ににらみのきく元勲とかいう連中がいなくなったあとは、
ますます軍がのさばり
結果、昭和の軍の暴走、専横を招いた。

つまり明治の国家デザイン自体に軍事国家化の欠陥があったと思っていたのですが、
短絡的すぎますでしょうか?
軍がクーデター同然に権力を奪取するまでは、
政府によってコントロールされていた、すなわち西欧に比べても
特別欠陥のある政治体制ではなかったとお考えでしょうか?
そのあたりお聞きしたいのですが。




[1295] 責任者不在 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/15(Tue) 22:40  

なるほど、そういう考え方もありますか。

この場合、統帥権とは何か、という点が重要ですね。

まず明治憲法に置いても、天皇の存在を最高の位置におきながら、
天皇の存在とは別に司法、立法、行政の三権分立は明確に行われていました。
当然、軍は行政機関により運用され、その予算は議会に握られるはずです。

が、面倒な事に、軍に関しては
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
という条文が存在してしまいました。

同じ天皇の権限でも、行政に関しては
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

立法に関しては、
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ

と、憲法、議会に縛られるのに対して、軍事に関しては、
天皇の専断が許される、と解釈されかねない一文があったわけです。
これが統帥権が行政、議会から独立した権限である、とされた根拠です。

が、この条文の解釈は多くの憲法学者によって、三権から独立しない、
とされており、少なくとも昭和に入るまでは、それが当然の考え方でした。
昭和に入ってからも、佐々木惣一の昭和5年の著作、
日本憲法要論などでは軍が三権から独立する、
という話はなんら法的な根拠はない、と断言されています。

では、なぜ統帥権を盾に軍の独断先行が可能になったのか、というと単純に、
連中が国内で一番多くの鉄砲を持ち、人殺しに向いていたからに過ぎないように思われます。

きっけかは、昭和7年(1932年)の5.15事件で、立憲国家の首相を軍人が暗殺する、
という恐るべき事件を起こしながら、軍関係者の処罰が禁固4年〜15年前後で済んでしまった事でしょう。
この結果、軍はいざとなったら、政治家を殺してしまえばいい話だ、と考え始めます。
これが2.26事件に繋がるわけで、以後、日本の政治家が軍を恐れたのは、純粋に命の危険からです。
戦前の近衛首相などの記録を見ると、露骨に軍から暗殺されることを恐れているのがわかります。

こういった面から見て、軍が政治に食い込んだ過程は単純な暴力革命に他ならないでしょう。
統帥権や帷幄上奏権うんぬんは、それにともなう理論防御、屁理屈に過ぎないように見えます。

ただし、日本のマスコミが軍部独裁の手助けをした、というのは確かに事実です。
これは日露戦争講和の際、日本中で起きた暴動をあおった事から始まり、
5.15では犯人の軍人擁護の論陣が目立ちましたから、連中にも相当な責任があります。

とはいえ、そこから日本国民がこの体制を支持していたか、というと何とも言えません。
永井荷風は特殊例かもしれませんが、彼などはあきらかに昭和の軍人体制を嫌ってましたし。

とりあえず、昭和初期の軍事国家は、やはり暴力を媒介に成立したものであるのは間違いありません。
独創的という面も、あまり無いように思うわけです。


[1294] 日本の場合 投稿者:五反田猫 投稿日:2013/01/15(Tue) 21:13  

例によって本旨と関係ないツッコミで済みません。

日本の参謀本部が史上稀な完敗をしたのは紛れも無い事実で、その点は駄目組織である点は反論の余地はありません。
但し、統帥権という法の穴を付き議会政治を骨抜きにし、マスコミ利用で国民の支持を取り「草の根軍国主義」政治体制を作ったのは独創的な発想という見方も出来るように思います。 誰でも自分で自分を客観視できませんから、軍部が政治の中心に座れば国家戦略無き戦争で、未曾有の大敗北をしたのも主因で、軍人が政治を主導すればよほど運がよくない限りエライコトになるのは言うまでもありません。
何が言いたいかと言えば、日本の場合は 軍人がマスコミ操作をして、国民がしっかり支持した点は、軍事クーデター誕生する軍事国家と違うのだという点です。


[1293] 戦法 投稿者:アナーキャ 投稿日:2013/01/14(Mon) 22:49  

本文中でも書きましたが、電撃戦を一つの定義でまとめるのは無理があります。

あえて言うなら、高速行動による情報の飽和で敵の指揮系統を麻痺させ、
その結果、ほとんど戦わずして敵主力部隊を包囲殲滅する、というとこでしょうか。


[1292] 情報そのものによる司令部の処理能力に対する包囲戦・・・ 投稿者:ヒルネスキー 投稿日:2013/01/14(Mon) 17:08  

という事でしょうか(電撃戦)。
もっと上手い言い方が必要な気がします(というか欲しいです)。

>キジはなんでやねん
キジは……矢羽根に雉の羽が使われるそうですが……。


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