MURAJIさん、感想どうもです。
今回、調べものをしていて意外な存在だったのが、鳶ヶ巣に居た牢人集団でした。
三方が原の時、徳川側にも牢人という肩書が何人か出て来て、なんだろうとは思ってたんですが、
どうも合戦の時の助っ人みたいな形で世話になってる連中がいたような感じですね。
詳しく調べてみないとよくわかりませんし、調べる気力は無いのですが(笑)…
いれぐいさん、ご指摘どうもです。
戦後の米軍写真で橋の位置を確認したつもりでしたが、よく見ればこれ飯田線の鉄橋でしたね。
確かに現在の橋の位置から有海原に渡ってる事はあり得ないですね。
北側に迂回する形で、後ほど修正しておきます。
ちなみに私の記事では長篠城の東側、本長篠駅の辺りから北に向かうのがかつての伊那街道であり、
これが西に向かって長篠城の北東をかすめて対岸の有海原に抜ける説を取ってます。
大海の駅から北に抜けるのは江戸期(家光以降)に鳳来寺が大ブームを迎えた時、
御油宿から鳳来寺に向けて造られた鳳来寺道である、と考えているわけです。
両者は鳳来寺山のふもとで合流するのですが、江戸期以降が川沿いの道になり、
それ以前は山の中を通って本長篠駅に抜けるルートが旧街道ではないか、と判断したことになります。
ただし武田軍が北に逃げた、というのはご指摘の通りで、この時期からすでに鳳来寺に向かう道は
ある程度、街道並みに整備されてたのだろうか、という疑問はまだ解決していません。
この辺り、鳳来寺道と伊奈街道の関係とか、地元では何か言い伝えみたいなもの、ありますでしょうか。http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=11210&isDetail=true