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■マッキ MC.200 サエッタ / MACCHI MC.200 SAETTA イタリアの第二次大戦期の主力戦闘機の一つ、マッキMC.202 サエッタ。 愛称のSaettaは、イタリア語で稲妻、閃光の意味で、世界中の空軍はやはり雷様が好きなんですね(ただし矢のように飛ぶ、といった意味もあるらしい)。 アメリカ空軍博物館が保有するこの機体は世界中で二機しかない現存機の内の一つです。 1942年11月、あのエル アラメインの戦いの直後にベンガジで放棄されていたものを英軍が鹵獲した機体。その後、イギリスお得意の「アメリカで戦時国債売ってドルを稼ごう大作戦」の宣伝材料として、アメリカ本土に持ち込まれ、国内のあちこちで展示されたようです。すなわち航空機愛好機関に載せているシカゴのスピットファイア、Ju-87 と同じ理由でアメリカに渡ったものとなります。アメリカで国債を売ればドルが直接手に入り、アメリカから色々買い付ける上では非常にメリットが多かったので、あの手この手を講じてますね、イギリス人。 その後ずっと、アメリカ東部のニューイングランド航空博物館に放り込まれていたのを、1989年に個人が購入、イタリアからマッキの技術者を呼んでレストアした上で、この博物館に寄贈したとの事。チョー太っ腹ですな。ただし相手はイタリア人なので、どこまで正確な復元修復なのかやや心もとないですが、それでも資料性は高いと思われます。 第二次大戦に参戦した主要国、アメリカ、イギリス、ソ連、ドイツ、日本、イタリアの内、フォードによる大量生産システムを経験して無かったのが日本とイタリアの二カ国でした。この結果、この両国の航空機生産はかなりショボイ結果に終わるのですが、イタリアは特にひどいものでした。大戦に投入された戦闘機で2000機を超える生産数の機体は存在せず(涙)、それどころか全部合わせても数百機のみという戦闘機がいくつもあるという世界が展開します。日本ですら、ゼロ戦、隼は1万機を超えてるのに、です。 ちなみにイタリアの戦闘機で1000機を超える生産数を記録したのは4機種のみで、しかもその内2機種は複葉機でした…。 1933年に初飛行したフィアットのC.R.32と、その後継機で1938年に初飛行したC.R.42は複葉戦闘機として大量生産され、第二次大戦に投入されています。特にC.R.42はイタリアの戦闘機としては最大の約1800機(涙)造られましたが、Me109やスピットファイアより遅れて開発された複葉機では戦力にならず、結局、両機揃って開戦早々に戦力外となります。それでも終戦まで現役だったのがスゴイ所ですが…。スペイン内戦までなら複葉のC.R.32でなんとななったので、その流れで次も複葉で造ちゃったらしいのですが、まあイタリアですね(笑)。 1000機越えクラブの残りの二機はマッキの機体で、約1150機造られたこのMC.200、そしてほぼ同数造られた後継機、MC202となります。この両者がイタリア空軍の主力戦闘機だったと思っていいでしょう。 が、二機を合わせても総数2500機以下、その他の機体を全部合わせてもかろうじて5000機超えた程度の戦闘機しか無いのが第二次大戦期のイタリア空軍でして、なんでまた戦争なんて始めちゃったの皆さん、という気が常にします。 とりあえずMC.200では14気筒空冷870馬力のフィアット A.74 R.C38エンジンを搭載し500km/h(高度5000m)以上出た、ということなのでこのスタイルとエンジン馬力を考えればがんばってます。ただしこの数字、あちこちで見る割には出処がはっきりしないので、ホントにそれだけ出たのかは謎、としておきたいです。そもそも、軍からの要求が500km/h出せる機体、だったらしいので、この、あまりにちょうどイイカンジの数字は、どうも怪しいような…。 武装は胴体上に12.7mm×2門のみと、正直言って貧弱です。ちなみに、この時代のヨーロッパの戦闘機ですから、この機体も迎撃戦闘機、すなわち飛んで来る敵の爆撃機を迎え撃つための機体なんですが、この武装ではどうしようもない気が…。その一方では素早く迎撃するため、高度5000mまで5分で到達という、当時としてはかなり厳しい要求をしてたりするんで、どうもイタリア空軍、いろいろ中途半端なような。 この機体を設計したのは伝説の水上機レース、シュナイダートロフィーで1925年以降、何機ものイタリア代表機を設計したマリオ・カストルディ(Mario Castoldi)。そして、このシュナイダートロフィーでイタリアの最大のライバルとなったイギリスチームのデザイナーが後にスピットファイアを設計するミッチェルでした。ちなみにシュナイダートロフィーにおける両者の勝敗数はカストルディ 1勝(1926)、ミッチェル 3勝(1927、29、31)でミッチェル圧勝となっています。この辺りの結果が後にスピットファイアとこのマッキMc.202の差に繋がったのかなあ、という気もします。 ただし、最後の1931年のシュナイダートロフィーはイギリスの不戦勝でした。理由はカストルディが設計したマッキMC.72の完成が間に合わなかったから(涙)。 その後、1933年、本来の締め切りから2年後に飛行した時には、最終的に世界最高速度記録を打ち立ててますから、機体そのものの設計は悪くなかったのでしょう(ただし5機製造された内、4機は事故で損失というスゴイ機体だが。生き残った最後の1機は現在イタリアの軍事航空博物館で現存)。 ちなみにこのMC.200の初飛行は1937年の12月のクリスマス イブ、すなわちミッチェルのスピットファイアより1年9ヶ月後だったのに、その設計の古臭さは明確でた。まあ、これはマルケッティの責任ばかりではないのですが、この辺りはまた後ほど。 MC.200は初飛行の翌年、1938年にイタリア空軍の次期主力戦闘機、戦闘機1号(Caccia I)を決める競作に参加、その勝者となって晴れて正式採用となるわけです。この時、競作試験に参加した機体にフィアットG.50 があり、こちらの方も悪くない性能を示したため、戦闘機1号(Caccia I)となったMC.202の予備として採用され、最終的に680機を超える生産がなされました。これはイタリアの戦闘機としては、かなりの数です(笑)。ちなみにCacciaはイタリア語で狩猟、Hunting の意味らしいので、ドイツの戦闘機を意味する名詞、Jäger(猟師)に近い感覚の呼称となってます。 |