■マッキ C.202(C202)
フォルゴーレ
Macchi C.202(C.202) Folgore
一応(笑)、イタリアを代表する戦闘機と言っていい機体。
1940年8月に初飛行、1941年中盤から部隊配備となってますから、
日本のゼロ戦からそれぞれ1年遅れ、ほぼ同世代と考えていいでしょう。
C.200→C.202→C.205という三段活用戦闘機の真ん中に当たる機体で、
イタリアの戦闘機では、もっとも有名なものかも知れません。
ただし、主力戦闘機とは言いかねます…。
M.C.202と表記される事もありますが、マッキ社のC.202、
略してM.C.202らしいので、機体名だけならC.202が正しいようです。
ちなみにフォルゴーレは雷電の意味らしく、
世界中の戦闘機で人気が高いカミナリ名シリーズの一つとなってます。
そもそも第二次大戦におけるイタリア空軍(RA)最大の問題は
主力戦闘機らしい戦闘機が存在しなかった事かもしれません。
第二次大戦の主要参戦国のうち、
例の大量生産絶対主義男、ヘンリー・フォード閣下の影響を
ほぼ受けなかった国が二つあり、ひとつは我が日本、
そしてもう一つがイタリアです。
この結果、アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連各国が生産した機体では
1万機超えがそれぞれいくつかあるのに対し、
日本はゼロ戦が辛うじて1万機を越えただけでした。
ところが下には下が居るもので、イタリアでは単発戦闘機でも
全て生産数は1200機前後と言う、ほとんど趣味で戦争やってます、
といった世界になってました。
この機体も1200機以下、ベースとなった先代のC.200も同じようなもので、
最大の生産数を誇ったフィアットのCR.42ですら1900機以下と見られてます。
恐らくイタリアの全戦闘機を合計しても、Me109はもちろん、
ヘタをするとゼロ戦より少ない可能性があるのです。
…よくこれで連合軍相手に近代戦をやろうと思ったな。
で、当然のごとく真っ先に戦争から脱落したイタリアは
結果的に敗戦国扱いを免れたため、この機体も戦後まで
イタリア空軍で現役だったそうな。
先に述べたように、C.202は、この写真のC.200からの進化型です。
全然違うじゃん、と思ってしまいますが、
P-40やFw-190Dのように、C.200の空冷エンジンを
より強力な液冷エンジンに切り替えたのが、C.202なのです。
そのためのラジエターを胴体下に追加、オイルクーラーもまともなものに代え、
(C.200はエンジンカウル前面むき出しの銅色の部分がオイルクーラー…)
コクピットを密閉型にし、胴体を1m前後延長するとM.C.202になります。
…いや、やっぱり全然別モノだよな、それ(笑)。
ちなみに、202がさらに発展して205になるんですが、
なんで最初が2つ、次が3つ数字が上がるのか、全くわかりません…。
まあ小数点以下の名前の機体がある戦後フランスよりはマシなのか。
で、このC.200番台シリーズの機体設計者は
1920〜30年代の水上レーサー機の製造で名を売った
マリオ・カストルディ(Mario
Castoldi)でした。
スピットファイアの産みの親、ミッチェルとは水上機レースの
シュナイダートロフィーで常にライバルだったイタリア人設計者で、
世界最速記録を樹立した水上レーサーM.C.72を設計した人です。
ところがカストルディ、レーサー機の設計で
機体の空気抵抗削減には慣れてるはずなのに、
一連の200番台シリーズは、コクピットが妙に高い位置で、
胴体から大きく出っ張ってしまっており、有害抵抗値は高かったろうなあ、
というデザインになってしまってます。
パイロットの意見を取入れすぎたんでしょうか。
ちなみに、この機体のエンジンはドイツのDB601をライセンス生産した
アルファロメオのAlfa-Romeo
R.A.1000 R.C.41-I
モンスーン(Monsone)
という、書いてて腹が立ってくるほど長い名前なのですが(笑)、
これはどうもA型あたりのライセンス生産で、1170馬力前後しか出てなかったようです。
(C.205がDB605のライセンス生産版を積む)
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