■7日の午後がやって来た

さて、この後は、いよいよ日米の空母主力部隊、
すなわちMO機動部隊とTF17の激突となります。
が、双方の錯誤により、本来なら7日の午後に発生していたはずの
最後の戦いは8日に持ち込される事になってしまうのです。

ただし、この日の夕方に太平洋戦争中、
最も混乱したよくわからない(涙)航空戦と、
不思議としか言いようがない敵艦隊との接触が発生する事になります。
今回は、そこまでの流れを見て行きましょう。

ちなみに、最初に非常に重要点を確認しておくと、この日の日没は18:15でした。
この数字はちょっと覚えておいてください。

日米両機動部隊がそれぞれの勘違い攻撃を終え、
攻撃隊を収容し終わったのはほぼ同時刻で、午後13:15前後となってました。
この時の両者の位置関係をもう一度確認すると、こんな感じです。



風向きの関係から、両艦隊は同じ方向に進んでる時間が長く、
常に240海里前後の距離を維持し続けた、というのは前回書いた通り。
そして攻撃部隊収容後は、しばらく両者共に西に向かう事になります。

ところが、TF17のボス、フレッチャーは日本の空母機動部隊、五航戦が
北西方向に居ると思ってたため、次の攻撃準備が整うまで、
一時、南に向け退避を始めてしまいます。
対して、日本のMO機動部隊(五航戦入り)は、ひたすら北西に向かっていたため、
以後、両者の距離はどんどん縮まってゆく事になるのです。

この時間帯にアメリカ側は強烈なスコールの海域の中に入ってしまい、
さらに次の攻撃準備もあって、しばらくは空母から索敵機が飛ばせませんでした。
風と波も強く、よって巡洋艦からの水上偵察機も出れません。
すなわち全く敵の情報が得られない状況が続きます。

とりあえず、7日の午後は、スコールを伴う悪天候の影響により、
視界もなければ、周囲は積乱雲だらけ、という状況だったようで
(普通の機体が積乱雲に入ったら乱気流でほぼ確実に墜落する)
このため日本艦隊の索敵はアメリカ陸軍のB-17、
あるいはオーストラリア軍のカタリナなどに任せきりになってたわけです。

ちなみに南緯14度以下の低緯度地帯ですから、
偏西風の影響は小さいはずなんですが、珊瑚海海戦の前後に限っては、
この海域の天候は西から東に変わっていたようです。
なのでアメリカのTF17が出会ったスコールの強烈な嵐が
翌日の午前中、東側のMO機動部隊に到達し、
その結果、瑞鶴を救うことになるのです。
この点はまた後で。



アメリカ陸軍の爆撃機、B-17はその長大な航続距離を生かし、
オーストラリア本土、あるいはポートモレスビーから出撃して、この海域全体を飛び回ってました。
とはいえ陸軍の爆撃部隊は水上艦への
水平爆撃訓練なんてやってませんから(動く相手への爆撃なのだ)、
何度か行われた日本艦隊への水平爆撃は全て失敗に終わりました。
(主にポートモレスビー攻略部隊が攻撃された)

余談ですが、アメリカの爆撃機に積まれ、
後にヨーロッパにおけるドイツ爆撃で活躍する一種の爆撃自動操縦コンピュータ、
ノルデン式照準器は本来、対艦攻撃用に開発されたものです。
(アメリカ戦略爆撃の始祖、ミッチェルはヨーロッパと違って近所に手ごろな敵が居ないアメリカで、
爆撃機部隊の存在価値を敵艦隊撃破に求めていたから、その名残)
よって、本来の任務にもどったわけですが、その戦果はゼロでした…。
(ノルデン式照準器については以前、このページの最後で簡単に説明した
http://majo44.sakura.ne.jp/trip/DC2013/airspace/02.html

ただし、この時期、不時着した機体から最高機密のノルデン式照準器が日本の手に渡るのを恐れ、
一部の機体には、そもそも付いてなかった、という話もあります…
そんなパッとしない陸軍のB-17にとって唯一の例外が、
例の祥鳳の発見を確実に報じた7日の朝の機体だったわけです。

ちなみに、それ以外ではむしろアメリカ海軍にとっても危険な相手でした(笑)。
先に見たように、USSネオショーの艦隊を日本より先に爆撃したのは
ほぼ間違いなく陸軍のB-17ですし、その後、例の別働部隊TG-17.3も
明らかに陸軍のB-17と思われる機体から爆撃を受けてます…。
幸い、両者とも損害は無かったのですけども。



そしてフレッチャーはスコールを抜けた後も南下を続行します。
夜になって安全になったら(航空攻撃は不可能だから)、
一気に西に向かい、夜明けとともに
ジョマード水道を超えて来るであろう日本艦隊を攻撃しよう、と考えたようです。
ついでにスコールを抜けた段階で、すでに日没まで約3時間となっていたため、
この日の索敵をやめた、というような事も行動報告書には書かれてます。

この時、フレッチャーは祥鳳沈没地点周辺に五航戦はいる、と考えてました。
よってすでに相当な距離が離れてしまった今、
索敵機を飛ばしたところで、視界の効く日没前までに
これを発見できる可能性は低いと考えたと見られます。
この辺り、一応、合理的な判断ではありました。

が、実際はMO機動部隊はすぐそばに居たわけで、その奇襲を避けれたのは
日本側の作戦があまりにお粗末だった事だけによります。
すなわち純粋に運が良かっただけでした。

例えば、日本の攻撃部隊が五航戦ではなく、現場が希望していた二航戦であり、
闘将 山口多聞さんが作戦を指示していたら、フレッチャー率いるTF17は
この段階で敗北していた可能性は高いのです。
(もっとも山口閣下の指揮なら、5日の段階で既に決着が付いてた可能性は高い)
よって、この辺りの判断は、フレッチャーの油断と言える部分ではあります。

そんなわけで、アメリカ側はこの日の午後、日没直前まで、
ひたすら南下するだけで(厳密には南南西)、特に何もしてません。
ただし嵐を抜けた後、15:00以降には上空援護の戦闘機だけは飛ばしてます。
そして、これが後で日本側の攻撃部隊と接触することになるのです。

対して、距離は全く掴めてなかった(涙)ものの、
日本のMO機動部隊の側ではTF17が北西に居る、と既に知ってましたから、
こちらは例の誤報、敵は(東に)反転せり、を受けてからいろいろ動き始めます。
なので夕方17:00過ぎごろまで、すなわち両艦対の距離が、
危険なまでに急接近するまで、常に日本側だけに動きがあったわけです。

そんなMO機動部隊司令部は、14:00の段階におけるTF17までの距離を
430海里(約796.36q)前後と、過大なまでに長距離に見積もっておりました。
さらにアメリカ空母機動部隊は自分たちとは逆方向、
西に向かってると考えていたので、攻撃は不可能だ、と当初は判断してます。
(繰り返すが、これらの索敵機の責任で彼らに非は無いが)

さらにこの時、敵戦艦部隊(TG17.3)まで380海里(703.8q)と推定しています。
敵空母の方が遠くに居る、という変な状況判断なのは、
前回見たように、索敵機からの位置情報がメチャクチャだったからです…

ところが14:07の、敵は反転せり、の誤報電文により、
それまで西に向かって遠ざかってる思われていた(そもそもこれが誤認なのだが)
アメリカ艦隊が、こちらに向かって来る、という事になりました。
とはいえ430海里も先の敵が反転した、というだけでは
まだまだ遠すぎて、事態は一向に好転した事になりませぬ。
ところがMO機動部隊は唐突に、その攻撃を決定してしまうのでした。

この辺りのMO機動部隊、というか五航戦の行動は支離滅裂で、
例によって何を考えていたか、よくわからりませぬ(笑)…。
せっかくですから、その辺りも少し見て置きましょう。

ついでながら、敵は反転せり、の誤報の影響を受けたのは
MO機動部隊だけではありません。
祥鳳亡きあとのMO主隊の重巡4隻もまた、
この情報を元にTF17に夜戦を仕掛ける事になりました。
(駆逐艦 漣は祥鳳の生存者救助に向かっていて艦隊内に居ない)
実はMO主隊は、この段階でもまだ、祥鳳の生存者を見捨てて
全力で逃げてたのですが(涙)15:00をもって急遽、南に転進する事になるのです。

同時に、はるか西で北上中だったポートモレスビー攻略部隊の護衛に当たっていた
第六水雷戦隊(旗艦は軽巡 夕張)が、やはり夜戦参加のため、
14:44、その護衛を離れ、MO主隊の重巡4隻に合流すべく
東に急行する事になります。

その辺りの位置関係は、以前見た以下の地図で再確認しておいてください。
MO主体の矢印の頂点がちょうと15:00辺りの位置で、同時刻、
西の第六水雷戦隊は、ちょうど分離して東に向かい始めた辺りに居ます。
参考までに、両者の会合予定地点はロッセル島の東20海里でした。

ちなみに、この地図でみるとMO主隊はTF17と
付かず離れずの絶妙な距離を維持してるように見えますが、
実際はTF17はずっと西側に居ると考えていたので、
敵とは逆方向に全力で逃げてただけです…。

さらに言うなら、この後もMO主隊は15:30まで
北東方向に向けて逃げ続けており(涙)、
その変針後も、ひたすら東に向かってました…。
これが、ようやく南に転進するのは17:30ころ、日没直前となります。
どんだけビビってるんだ、という感じですが…。
始めて体験した艦載機による空襲が、よほど怖かったんでしょうかねえ。



さらに言うなら、敵艦隊反転の情報が入る2時間近く前、すでに12:10の段階で、
既にMO主隊は南洋部隊(第四艦隊)司令部から夜戦の準備を命じられていました。
それでも、彼らは、これを無視してひたすら逃げ続けたわけです。
連中はTF17ははるかに西に居る、と考えてたのですから、
さっさと方向を転換してないと、夜戦に間に合わない事になるのに、です。

それにしても、この日の朝のMO機動部隊と言い、
ここまで誰もが上からの命令を無視する、
というのは軍という組織において少し異常な感じがします。
アメリカでも、マッカーサー、パットンという二大狂人の
命令軽視がありましたが、ここまであらゆる現場で、
それが行われてる、という事はさすがに無かったように思います…

日本海軍の艦隊司令官は皆さんは基本的に少し頭がおかしいのか、
それとも日本海軍の組織的な病気なのか、あるいは南洋部隊司令部が
作戦参加の各司令官たちからナメられていたのか、この辺り、どうもよくわりません。
とりあえず、褒められたものでない、というのは確かです。

ただし、最終的にこの夜戦計画は中止になり、この後、両艦隊とも、
まったくこの海戦には関係して来なくなります。
よって、この記事では基本的にはこれ以上、その動きを追いませぬ。

ちなみに、理由が全くわからないのですが、
日本海軍はなぜか夜襲に自信をもってました。
が、この時期からすでにアメリカ側は対空警戒だけでなく、
海上の索敵もレーダーでできるようになりつつありました。
これに対し、そんなもの見たことない、という日本海軍がケンカを売るのは、
昼間に目隠ししてモハメド・アリとのタイトルマッチに臨むようなもので、
その結果、日本海軍は死屍累々となって行きます。

恐るべし、レーダー、なのです。


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