■台湾の歴史-1

さて、お次は歴史編です。

台湾が九州や海南島と同じような大きさだ、というのは既に書きましたが、
他の二つの島との大きな違いとしては、台湾本島は、
大きな島や大陸から大きく離れてる、という点があります。
これが台湾の歴史にいろんな影響を及ぼして来るのです。



こんな感じで最も近い中国本土までも170q近くあり、
20q以下の至近距離に、本島や大陸がある九州や海南島とは大きく異なりました。

そこに持ってきて中国は歴史的に大陸国家であり、海洋進出にはほぼ無関心でした。
例外はよりによって大陸の奥から出てきた騎馬民族、モンゴル族による王朝の元くらいですが、
彼らでも朝鮮半島の先にある日本に興味を示したくらいで、それ以上はやってません。
本土のはるか沖合にある台湾なんて、興味の外でした。
(なぜか琉球には興味を示してるのだが…。人が多いところが好きな寂しがり屋さん?)

その後の明、そして異民族(女真族)による征服国家だった最後の王朝 清は
政策としては鎖国国家でしたから、これまた当然、台湾になんて興味を示しませんでした。
(この点、現代の中国が主張する“南シナ海は歴史的に中国の海”は
チャンチャラおかしい、という他ない。彼らが海洋を支配した事は有史以来一度もない。
むしろ猫のように水を嫌い続けてきたのが中国の歴史なのだ。
まともな歴史教育をしてない国家の弊害なのか、単に知っててウソをついてるのかは判らんが)

このため台湾に中央集権的な政府は存在したことが無く、
地域ごとの豪族のようなものすら居ませんでした。
原住民族たちがそれぞれの集落ごとにまとまり(これを社と呼ぶ)、
各地で暮らしてる、という北アメリカのインディアン(ネイティヴ アメリカン)
に近い状態が、17世紀に入るまで続いていたと思っていいようです。

そもそも、この島に正式な名前があったかも怪しかったりします。
中国側でキチンとした文章で残ってる最初の台湾の記録は1603年初頭、
海賊討伐中に台南周辺に立ち寄った明の軍船団が残したものでしょう。
その中に居た板陳弟が上陸時の原住民との交流などを記録した東番記がそれです。

東番の名が台湾島全体を指すのですが、他の文献ではあまり見ない名で、
果たしてこれが一般的な呼称だったのかはわかりませぬ。
さらに大員(ダイイン)という上陸した地点の名前が出てきますが、
これは現在の台南の事だと思われます。

当時の台南はタイオワン(Tayowan、Tayoan)と呼ばれてたので、
本来はタイイン、と読んだんじゃないかという気もします。
ちなみに後のオランダ人も、ここを拠点にしたため、このタイオワン、が
後に島全体をさす台湾の名になって行くのです。
(つまり原住民の言葉に対する当て字で、台湾の字に特に意味はない)

ただしオランダ人の場合、あくまでその活動拠点、
ゼーランジャ城(Zeelandia)がある地域(現在の台南)をタイオワンと呼び、
島全体を呼ぶ時は、欧米諸国で定着してた名称であるフォルモサ島
(Formosa/ポルトガル語で美しい島Ilha formosoから)としていました。

ちなみに20世紀に入るまで欧米では普通に台湾本島をフォルモサと呼んでおり
太平洋戦争時のアメリカ側の公式文章にも、フォルモサという単語が
ポンポン出てきて、ちょっとビックリすることがあります。

その一方で、日本では意外に古くからその存在が知られており、
晩年、狂気に走ってしまった豊臣秀吉が、朝鮮や明と同様に、
俺様の属国になれ、とわざわさ使節を1593年(文禄2年)に送ってます。
これは東番記の登場より前ですから、むしろ日本が先に台湾に興味を示したことになります。
ちなみに、この手紙は前田家が明治になるまで写しを保管してたはずですが、
私は現物を見たことはありません。

昭和41年に出版された資料、異国往復書簡集によると、
秀吉の書状に見られる台湾を意味する地名はタカサゴ、あるいはタカサンで、
字は高砂、多加沙古、高山、となってるようです。
これが当時の日本における台湾の呼称と考えていいでしょう。

このうち、高砂(タカサゴ)の呼称は明治に至るまで日本で使われてました。
台湾の原住民を高砂族と呼ぶのはこれによります。
(あくまで日本語で、現地では通じないので注意)

が、先に書いたように、台湾全体を支配する王朝のようなものは
存在しませんから、この時、秀吉により派遣された使節の長崎商人、
原田喜右衛門は現地に上陸しても何もできず、そのままフィリピンに向かってます。
(後に原田喜右衛門は秀吉にフィリピン出兵、台湾出兵を願い出てるが却下されてる。
ちなみに当時の台湾にはすでに日本人の集落があったらしい)

ちなみに高砂という地名は、なんとも縁起のいい名前ですが、
これは単に当て字で、南部にあった原住民の集落、
マカタオ族のタカオ(Takao)社(先に書いたように原住民の集落を社と呼ぶ)
から来てると思われます。
当時、すでに交易のため、日本人は現地に多くいましたから、その情報に基づくのでしょう。
ちなみにこのタカオ社が後に台湾第二の都市、高雄の名の元になってますが、
戦後に高雄の名は中国語読みのカオシュンとなってしまったため、
現地の人にとって、地名の由来がイマイチわからなくなってしまってると思われます(笑)。

さて、話を戻しましょう。
17世紀の1624年の8月になって、初めて島の南部全体に
影響力を及ぼす、一種の中央政府が台湾に登場します。
ただしこれは中国本土の明王朝から来たものではなく
当時、インドネシアを既に植民地とし、ジャカルタ(バタビア)を拠点に
中国との貿易を始めようとしていたオランダの東インド会社がやって来たのでした。
ただし、当時、ポルトガルがすでにマカオに基地を築いており、
さらに明の王朝に深く食い込んでいたため、オランダは苦戦が続いてたのです。

この時代の貿易は海賊行為と紙一重なのは、東洋も西洋も変りませんから、
オランダ側は武力に訴えてマカオを攻撃したりしてるんですが、全て失敗に終わってます。
(香港旅行記で出てきたマカオの砦は、こういった背景で作られたもの)

その結果、オランダの東インド会社の拠点は、
大陸沿岸よりはるかに沖合に浮かぶ島、台湾と本土の間にある
澎湖諸島(Penghu Islands)に築かれました。



マカオの松山市政公園に残るポルトガルの要塞跡は、
こういった時代背景のもとに造られたものです。

当然、オランダ側も対抗してタイオワン(現台南)にゼーランジャ城を築くのですが、
こちらはわずか40年足らずで放棄されたため、現在は廃墟に近いものしか残ってません。
さらに19世紀になると清国がゼーランジャ城跡のレンガを使って対日本要塞とか作っちゃったので、
遺跡としてはより悲惨なものになってます。まあ、今回、ゼーランジャ城跡は訪問してないんですがね。




が、この澎湖諸島のオランダ前線基地も明政府からの妨害で放棄せざるを得なくなります。
このため最終的に台湾本島西岸、現在の台南、当時はタイオワンと呼ばれてた一帯に
その拠点を築き、そこを本拠地として台湾南部一帯をオランダの支配下に置くのです。

ちなみに同時期にスペイン人が島の北部に基地を築ているのですが、
こちらは特に周囲に影響を及ぼすこともなく、後にオランダの攻撃を受けたりした結果、
あっさり撤退してしまいます。

ただし、このオランダ人の台湾南部支配はわずか37年前後で終わってしまいます。
貿易にあまり利益が出なかった事、日本が意外に強力なライバルになってしまった事、
など、いくつかの理由があるですが、
最大の原因は、鄭成功(てい せいこう/チェン チェンコン)の来襲でした。

義賊であり、海賊でもあった鄭成功が中国本土であらたに成立した異民族王朝、
清の国に対抗するため、この台湾にやってきてその拠点とするのです。
この時、タイオワンにあったオランダのゼーランジャ城は鄭成功軍に包囲されるのですが、
それほどこの地を重視してなかった東インド会社は救援を出さなかったようです。
この結果1662年には落城、生き残ったオランダ人はジャカルタに撤収し、
以後、二度と戻って来ませんでした。

失敗したら恥ずかしい、という強烈な名前の鄭成功は、父が明人の海賊 鄭芝龍、
母は平戸生れの日本人という混血であり、
歌舞伎や浄瑠璃の国姓爺合戦のモデルになってる人物です。
(ただし史実とは全く異なる話になってるが)
中国でも英雄視される人物で、台湾にある成功通り、成功大学などは
Success の意味ではなく、この人物の名前です。

もともとは父親と一緒に海賊をやったて人物なんですが、
いろいろあって明王朝の政府に取り込まれてしまいます。
が、その後、明が滅んで異民族による清王朝が成立してしまうのです。

この時、鄭成功の父親、鄭芝龍を始め、多くが新たに清王朝に帰属してしまうんですが、
鄭成功はあくまで明王朝の復活を唱え、清軍を相手に戦いを挑み、
大陸本土で敗北した後は、台湾に一種の独立王朝を造って立てこもります。
この時、先に見たオランダの追放が行われるわけです。

が、鄭成功はゼーランジャ城を占領した直後の1662年夏に死去してしまい、
(病死、発狂による死亡説などがあるが詳細は不明)
その後、3代にわたって鄭氏の支配が続くものの、1683年には清軍の討伐を受け、
鄭氏は滅亡、以後、台湾は清王朝の支配下に入る事になります。

その後、20世紀の日本の統治時代まで、台湾では清政府による支配が続くのです。

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