■台湾の歴史-2

そんな感じで、中国でも英雄視されてる鄭成功の活動があった後は、
またも歴史の空白に埋もれてしまった台湾ですが、
400年近く経って20世紀に入った途端、劇的に歴史の舞台に登場します。

この間に対岸の福建省、広東省などから移民が流入、
漢民族の文化を島全体に押し広げて、中国化は進んでいたようです。

そして日本が明治に突入した直後、1871年(明治4年)に
琉球の宮古島の住民が台湾に流れ着く遭難事件が発生します。
その後、先住民族(本土から移民してきた漢民族ではない)の集落(社)、
熟蕃社、生蕃社、牡丹社などで、彼らの内、54名もが殺されてしまう事態になるのです。
いわゆる宮古島島民遭難事件ですね。

ちなみに台湾の先住民には首切りの風習がありました。
侵入者や、他の集落(社)の人間を殺して首を取ってくるのが、
一種の儀式となっていたようです(イニシエーションと見ていいだろう)。
よって一人前の大人で、勇気ある男である、と認められるには首狩りが必須という
妙な風習があったため、彼らもその犠牲になった可能性があります。
(ちなみに日本統治後もこの風習は残り、現地の日本人を悩ませたらしい)

この事件を受け、当時まだ帰属があいまいだった琉球(沖縄)を
自国の領土として主張していた明治政府は
この点をはっきりさせるためにも清国政府に対して抗議を行いました。

この時、清側は台湾先住民族の居住地は我らの管轄外(化外)だ、
といった回答をして来たため日本側は3年後の1874年に
台湾に出兵、直接原住民に報復を加える事にします。
これがいわゆる台湾出兵です。
西郷従道率いる日本軍は、上陸後、事件の舞台なった
それぞれの社(先住民集落)を攻撃、ほぼ全てを占領してしまいました。
(ちなみに日本軍に戦闘による戦死は少なかったがマラリアの病死が続出している)

この台湾出兵の停戦交渉には、当時の最高レベルの政治家であり官僚でもある、
薩摩の大久保利通が自ら北京に乗り込んでます。
彼は、清国政府に無断で行われた出兵に対して抗議する清国代表に、
台湾が清王朝の管轄外なら、日本が何をしようと勝手だ、と主張したようです。

このため、清国側は漢民族以外の先住民の存在が管轄外であって
領土の問題ではない、と主張を変え来ます。
これを大久保は逆手に取り、だったら清国領土内で起きた
この事件に関して責任を取って賠償せよ、とねじ込み、
英国などの口利きもあって、その駆け引きに成功する事になります。
(ただし実際の戦費よりはるかに少ない賠償額で大赤字だったが)

最終的にこの台湾出兵は、日本側の戦闘行為を清が了承し、
賠償金を払った事で和解、日本はその後、撤兵してます。
が、この時の清側の当初の主張、台湾の原住民は清王朝の管轄ではない、
という話が、だったら台湾は誰のものだ?という疑問を呼びます。
この辺りから、日本側に台湾は取れるのではないか、という考えが出てきたように見えます。
(確認できなかったが、同じ話を聞いたアメリカの外交官ハリスが、
だったら台湾を買い取ってしまえ、とアメリカ本国に進言した、という話もあり)

この点は清国側にも気がつかれていたようで、日本の侵略に備えるため、
1870年代後半から、台南に城塞を築いたりして、
台湾は対日防衛体制とでもいうべき状態に入って行くのです。

この結果、従来の台湾の政治の中心地だった南の台南を捨て、
より日本に近い北側に位置する台北が台湾の首府に決められ(1874年ごろ?)、
さらに防壁に囲まれた城塞都市とすべく、城門と城壁が築かれる事になります。
すなわち台北が台湾の首府になったのは日本のせいだったりするわけで。



台北は堅固な城壁に囲まれた中国型の城塞都市を目指して建設がすすめられ、
最終的に1884年ごろには城壁と門が完成してます。
ただし、その規模は極めて小さく、現在の台北だと南北で台北駅から総督府のちょっと南まで、
東西で西門の繁華街から台北大学病院のあたりまで、歩いて20分程度の距離に過ぎません。

このため、日本の統治下に入ったころにはすでに手狭になっており、
後に(1900年ごろ?)日本はその城壁を全て取っ払ってしまいました。
そのさい、現在最大の繁華街となってる西門地区にあった西門は破壊されたのですが、
当時、台湾総督だった児玉源太郎(あの日露戦争を戦い抜いた日本の頭脳である)が、
これを惜しみ、残りの門の保存を命じたようで、現在、北、東、南の門は残ってます。
写真は現在も残る小南門で、南側の門です。
ついでながら、地図で見ると判るように、この現存する門は全て東西南北に走る大通りで繋がれており、
この大通りがかつての城壁の跡を走ってるものだったりします。

ちなみに日本はソウルでも同じように市内の城壁の破壊をやったため、
こちらもの町中に突然、城門だけが取り残されてる、という状態で、
この点、街の雰囲気がちょっとだけ台北も似てますね。
ただしソウルの城門、城壁が古いところでは数百年の歴史を持っていた
文化遺産だったのに対し、台北はせいぜい築30年程度の新しいものでしたが。

でもって、これらの城壁は、日本が直接侵攻して来なかったので、
結局、役に立たないまま終わります。
そして台湾は戦場にならなかったものの、1894年の日清戦争で日本が勝利した時、
台湾は清国から日本に割譲される事になるわけです。
以後、1895年から敗戦の1945年までの50年間、台湾は日本領となりました。

ちなみに日清戦争は本来、朝鮮王朝の清王朝からの支配脱却と
新たに日本の配下に入らせる事をめぐって戦われた戦争ですから
朝鮮半島をめぐる日本と清の戦いでした。
よって台湾は何の関係もありませんし、そこになんら戦略的な価値もありません。
それでも日本軍は、まるで関係ないはずの台湾に向けて作戦計画を持ってました。
とりあえず余力が無くて、最終的には台湾本土には上陸しないで終わってしまいますが、
明らかに台湾に対し、領土的な野心を持っていたと見ていいでしょう。

1895年以降、日本の統治下に置かれた台湾ですが、後に同じような状況に陥る朝鮮との
最大の違いは、こちらは独立国ではなく、中国の一地方に過ぎない島だった事です。
この辺りは、大戦後、一時的にアメリカに占領され、その支配下にあった
日本の沖縄に似てる部分があります。

なので他国の文明、文化を丸ごと接収して自国の支配下に置く、
といった朝鮮のような状況ではありませんでした。
さらに日本は占領直後に、中国本土に出て行きたい奴は出ていってよい、
といった政策まで取ってるため、
(実際、そんな事が可能か、といえば微妙ですが)
比較的、ではありますが、穏便な植民地経営となって行きます。

そして何より、先にも見た日本史上最強の頭脳を持つ政治家と軍人だった
児玉源太郎が、その植民地経営のもっとも微妙な
初期の8年間(後の日露戦争のため実質6年)の経営を担当、
これにより、中国の田舎の島に過ぎなかった台湾を近代的な地域に引き上げて行くのです。

さらに彼自ら補佐官に選んだ後藤新平もまた徹底的なデータ主義者で、
熱心に調べてキチンとした対応を行っていく男でしたから、この最強コンビによる
台湾経営により、以後の台湾はほぼ方向づけられてゆきます。
児玉源太郎が日露戦争に出てた最後の約2年間は後藤新平が台湾を見ていたのですが、
この人の手腕も悪くなく、台湾にとっても日本にとっても幸福な人事だったと思われます。

ちなみに児玉は8年以上やる気だったと見えるのですが、
先に書いたように日露戦争の勃発により、祖国の危機とあっては
こちらに行くしかなく、台湾を離れてしまいます。
(日露戦争に行くに当たっても台湾総督を辞任せず後藤に代行させた)
そして戦争終了後、疲れ果てて亡くなってしまうのですが、
この点は惜しいとしか言いようがありません。

ちなみ児玉の前任者は、あの乃木希典で、
彼はわずか1年4カ月だけこの職を務めると、すぐに投げ出してしまったのです。
その後の日露戦争といい、どうも児玉さんは常に
乃木の尻拭いをさせられてる印象があります。
でもって乃木といい、東郷といい、こういった連中は必要以上に生き残るんですよね…



台湾における日本の印象がそれほど悪くなかった実例として、
彼らは統治時代の建物を、今でも大切に維持、利用してます。
そういったものを片っ端から破壊してしまった韓国とはまるで違う部分といえるでしょう。

この辺りが国を丸ごと乗っ取られた場合と、
単なる領土割譲だった場合の差なのかもしれません。
もっとも単なる領土割譲でも、ドイツとフランスの間を行ったり来たりしてる
アルザス・ロレーヌ地方なんてかなり悲惨ですから、一概には言えませんが…。

写真はそんな建物の一つ、台湾総督府。
日本領となってから25年近くたった1919年に完成した建物で、今でも現役で使われてます。
さらにいうなら、大戦中、米軍の爆撃を受けて破壊されたのを戦後修復しており、
(このため戦前とは微妙に形状が異なる)
それなりに愛着を持たれてたのだと思います。
そして、この総督府がある一帯には、こういった日本統治時代の建物が多く残ってます。

他国の植民地化、というのはどう考えても褒められたものでは無いのですが、
台湾の場合、領土の一部割譲だったので、話がやや異なる感じはします。
さらにこういった建物などのインフラ整備を行って、ここを近代的な島にしたのは
間違いなく日本ですから、その評価は慎重に行う必要があると思われます。
(香港におけるイギリスの役割にも似ている。日本はもう少し子供っぽい事をやってしまってるが…)

もっとも台湾が中国本土よりはるかに近代的になってしまった結果、
すなわち行政機関が整備されていて、すぐに国家として運営にできる地域だったため、
第二次大戦後、共産党に負けた国民党政府が
ここに逃げ込んできてエライ事になるんですが…


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