キレイに復元されておりました。そして徳川式のキンキラ金。といってもここまでキンキラ金の建物が連発されたのは秀忠から家光に至る数十年だけの可能性も高く、ある意味で日本の特異点の建物が日光に大集結しちゃった、という面もあるのか(京都の八坂神社本殿は戦国風の質素な建物だが、あれは四代将軍家綱より寄進された江戸期の建物。ただしこれが回帰の結果なのか、単に幕府にお金が無くなってそんな装飾過剰な建物が造れなくなった結果なのかは不明。五代将軍 綱吉時代の根津神社はここまで派手では無いですが、八坂神社よりは装飾性が高いですからね)。



で、その門の向こうはいきなり壁。すなわち90度直角に参道は右に曲がるのです。…これもまた城砦の構造じゃん、と思う。こんな山の中に建てても無駄なのに。宇都宮に造れよ、これならば。

ちなみに以前ちょっと書いた、家康は宇都宮に墓所を建てたかったんじゃないの説のもう一つの論拠が、家康のお気に入り家臣、本多正純(まさずみ)の宇都宮城入りです(後の釣天井事件の舞台である)。この配置は家康の遺言によるとされますから、家康は本多正純に見守られる形で宇都宮で寝る気だったんじゃないかなあ、と。ついでに家康の死が1616年、日光に東照宮が置かれるという決定は1617年、本多正純の宇都宮入りは1619年。すなわち家康の死後、三年も経ってから、ようやく正純は宇都宮に入ったわけで、この段階だと日光の東照宮は完成済みであり、どうしようも無かったでしょう。

家康の跡を継いだ息子 秀忠と父 家康の懐刀だった正純の仲は最初から悪かったと思われ、この辺りの葛藤とそこに付け込んだ天海が、家康を男体山の麓に埋めちゃったんじゃないかなあ、と思ってます。




90度右に曲がった階段は、再度90度左に曲がって三つ目の門に向かうのです。城砦じゃん、これ。左上から鉄砲で滅多撃ちにされたら逃げ場ないじゃん、これ。家光、死後は妙に攻撃的なのね。自分大好きヤンキー系なのに。



その階段の上から二天門を見下ろす。絵になりますね。



その先の杉並木が立派でした。花粉症持ちとしては微妙な感情を感じなくも無いですが…

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