■5年ぶりのよしみつてら



ようやく善光寺に到着、両親がいつも利用してる宿坊で本堂の内陣参拝手続きを済ます。
この後は1時間後に本堂横に集合との事。

写真は善光寺の最初の門、仁王門。
ついでにここら辺りの石畳は江戸期のものがまだ使われてる、と
以前に来た時に聞いたのですが、真偽のほどはわかりませぬ。

ちなみに本堂内のちょっと高い位置にある畳敷きの広い空間が内陣で、
ここは拝観料を払わないと入れません。
宿坊に泊まると入場券を貰えるんですけどね。

で、当然、畳の上なので内陣は靴を脱いでの参拝となります。
本堂内の畳敷きの空間は他の寺社でも見かけますが、善光寺の場合、
この内陣がやたらに広いのです。

宗教団体でもやる気か、という巨大な木造本堂が善光寺の特徴なんですが、
その理由の一つがこの畳敷きの内陣の存在で、かつてはここが宿泊施設を兼ねてました。
日没とともに本堂に入り、夜は本堂内で寝て、朝起きたらそのまま朝の法要(お朝事(おあさじ))に突入、
というコンビニなお寺だったようです。
ここら辺り、太陽信仰のニオイがしなくもないですが…。

ただし現在は朝の日の出前までは宿直のお坊さんしか入れず、
日の出直前に扉を開けて朝の参拝を受け入れてます。



そこから次の仁王門まではこの混雑振り。
さすが7年ぶりのご開帳、というところでしょうか。

どうでもいい点ですが、背後の山、杉林ではなく天然林に見えますから、
ここはお寺の私有地とかで植林がされなかったんでしょうかね。
人工の杉林でない山は個人的に見ていて落ち着きます。
まあ杉林でもスキー場やゴルフ場にされたマダラハゲの山よりマシですが…。

ご開帳というのは普段は人目に触れさせないご本尊を
7年ごと(全て本人の主張による。詳しくは後述)に公開するもの。
さらにその本堂の前に回向柱と呼ばれる巨大な柱を立て、
ご本尊とこれをヒモで結んでしまいます。

すると、その回向柱に触ることで、ご本尊様に触るのと同じ効果が期待でき、
ご本尊様と結縁されるんだそうな。
どういう原理なのかイマイチ不明ですが、とりあえずそういうものらしいです。

ちなみに仏教用語で結縁はヤヤコシイ因果律、
あるいは縁あっての出家のことを指すんですが、
ここで言う結縁がそのどちらなのかはよくわかりません。

もし後者で、柱にさわった途端、片っ端から坊主になる柱だと困るなあ、と思ったんですが、
今回見ていた限りでは目の前で毛髪が消滅した上に
出家した人は一人も居なかったので安全性に問題はないようです。



善光寺は江戸期の大規模寺院の構造をよく残しており、
周辺には善光寺を支える小規模なお寺が密集しています。
それらも同時にご開帳を行うようで、あちこちで本尊と結ばれた回向柱が立ってました。
奥の寺院の建物の前に見えてる杉の柱がそれです。

こういった寺院のいくつかが宿坊となり、宿泊施設も提供してるわけです。
高野山とかだと、かつては居住地ごと、例えば下総、上総の参拝客はこの宿坊、
という割り振りがあったのですが、善光寺の場合はよくわかりませぬ。
ただし、今でも宿坊ごとに「講(こう)」と呼ばれる一種の地方支部が存在し、
それらの会員は自分の講が所属する宿坊に泊まるようです。

というか、恥ずかしながら善光寺参りに講があった、と今回初めて知りました。
本来は特定の信仰集団を指す名称が“講”なのですが、
江戸期の農民、町民の間ではお金をためてお参りに行く団体だったり、
貧しい地域ではそのお金で代表だけをお参りに送り出す集団となりました。

富士山講なんかは今でも東京東部でその形骸が残っており、
ああ、富士山は山ではなく信仰なんだ、という発見があったります。
これがさらに進むと、地元の神社などに小さな富士山の模型を造って、
そこにお参りしたりするわけで、関東地方では、これが今でも結構残ってますね。



で、ようやく善光寺本殿に。
手前に見えてるのが回向柱です。

しかし善光寺の本堂は何度見ても巨大な木造建築で、
江戸中期(1707年)の長野にこんなもの建ててしまうのだから、
やはり当時の地方の財力、文化度は相当なものがあったんだろうなあ、と思う。
これを東京一極集中文化にしてしまったのは明治政府の罪なのでしょうが、
あの時代の状況では他に道も無いだろうな、とも思います。



ちなみに回向柱に向かうにもこの行列。
まあゴールデンウィーク中という事もあるのでしょうが、
スゴイ人気だなと思う。


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