■密教の話 その2
さて今回、もうちょっとだけ密教の話を。
当然、宗教的な話ではなく、純粋に歴史的、客観的な話ですので、
特定の宗教観を前提にした話ではありません。
この点は念のため。
さて、密教の「密」は、秘密の密を意味します。
秘密仏教、というとこでしょうか。
これに対し、密教以外の仏教を、真言宗では「顕教」と呼び、
むき出しで、誰にでも見える仏教だね、わかりやすくていいね、ハハハと、
軽く見下しています。
書籍や経文以外、秘密主義の口伝や、修行によって
伝えられる部分が多い宗教ゆえ、そんな名をつけたのでしょう。
宿坊の床の間に飾ってあった切り絵。
トラでしょうか。
最初、なにかの呪詛アイテムか、とあせりましたが、
翌日、あちこちで見かけたので、どうも高野山の民芸品的なものらしい。
密教の名はおそら空海による命名で、彼がその元ネタとした
唐の長安で布教されていた仏教が(すでに滅んでると思うが)
自分たちを何と呼んでいたのか、私は知りません。
さらに、同じようなインド土着宗教と大乗仏教を母体としたものに、
チベット仏教(ラマ教/Lamaism)がありますが、これも密教に含むかどうか、
各個人の主観でいくらでも結論が変わるので、微妙なところでしょう。
一歩間違えると邪教になりやすい宗派だけに、
その定義は難しいところなのです。
インド土着系宗教の特徴の一つに、口伝が多い、というのがあります。
文章では残さず、師匠から弟子へ、
修行が一定のレベルに達して初めて伝えられる、というものです。
密教では、この傾向が顕著で、このため、
当時日本に渡来していた経文をいくら読んでも
空海はよく理解できませんでした。
(禅宗にもそういう面があるので、密教だけの特徴ではないが)
ここから彼は比叡山、天台宗の最澄が事実上の代表だった時の
遣唐使のメンバーにもぐりこみ(どうやって入り込んだのか、よくわからん)、
唐の長安まで、その口伝を伝える寺院を求めて行くわけです。
やがてそこで秘伝の数々を会得し、得意満面で帰国した空海は、
先に帰国していた比叡山の最澄が、すでに都で
密教大ブームを巻き起こしてることを知ります。
実は最澄は、帰国直前、たまたま密教系の寺院に立ち寄り、
ここで深い考えも無く、せっかくだからというだけで、
その経典を模写して持ち帰っていたのでした。
本来は、天台宗の教えを求めて唐に渡ったはずの最澄が、
たまたま持ち帰った経典により、いつの間にやら、
日本の密教の伝道者になっていたわけです。
空海は、プライドの高い男ですから、この件で一気にトサカに血が上り、
やがて、この二人が仏教界の二大ライバルとなってゆきます。
(ただし、最澄はまじめで小心な男だから、多分、悪気はなかったろう)
実際、最澄がもたらしたのは経文だけで、
彼は密教の「秘儀」、秘密の口伝は受けておらず、
最終的には、やはり空海が、平安密教を牛耳って行きます。
秘伝無しでは、密教の“魔法”は完全に使えない、と。
その過程で作られたのが、この高野山となります。
ちょっと脱線しておくと、大乗仏教と、インド土着宗教の合体は、
大体7世紀を境に、前期と後期に分かれます。
空海が唐(中国)経由で取り入れたのが前期密教、
後にチベットからモンゴルまで広まったのが
後期密教(と呼んでいいかは別として)となります。
いわゆる“スケベ宗教”なのは後期の方で、空海が持ち込んだ、
前期密教にはその片鱗があるものの、
高野山が女人禁制であるように、空海はその方面への
宗派としての発展は拒否しています。
(空海亡き後、後に大発展するのだが、今回は触れない)
拒否しなかったのがチベット仏教で(笑)、
後に、これの存在を知ったチンギス・ハーンでおなじみ
モンゴル帝国の皆さんは、大喜びでこれに帰依してしまいます。
(1240年ごろ。本格化は5代フビライの時代、元建国後)
モンゴル帝国関係者のみんながチベット仏教にはまるのは、
「ああ、俺たちはなんて残虐だったんだ。…反省」
「うん、反省」
とか考えたわけではなく、
「なんかお坊さんが、俺たちに都合の良いこと言ってるぜ!」
「こりゃいいや!保護してやろうぜ!」
という方向性によるもの、と考えるべきでしょう(笑)。
結果、あの広大な高原の国々が、淋病で滅びかけることになりました(涙)。
念のため、現在のチベット仏教には、
そういう側面はほとんど無い、ということになってます。
真偽については、私はチベットに行ったことないので、わかりません。
日本に話を戻しましょう。
前期密教のさらに前、インドの民間信仰の状態のまま、
中国経由(隋時代?)で日本に入って来たのが、山岳信仰である修験道で、
山伏やら天狗やら加持祈祷などで日本に定着してゆきます。
彼らが、密教と似たような神々を信仰し、同じように
真言と印を使うのはこのためです。
(さらに紙に書いた呪布のようなものも使うが、これは道教の影響だと思う)
で、空海登場後の真言宗では、この密教到来以前に日本に入っていた、
「密教の断片」とでも言うものを無視するわけにもいかず、
雑密(ぞうみつ:この「雑」は、一種の蔑称だろう)と呼んでいました。
興味深いのは、日本の修験道の元祖、
役の行者(えんのぎょうじゃ)/役
小角(えん の
おづの)の話です。
彼は、日本史に最初に登場する、人間から魔法使いになった人ですが、
この魔法の源泉である修験道、雑密を、仏教だと主張していた、とされます。
(奈良の葛城山周辺の土着神をイジメまくるとき、
いいか、オレのバックには仏教がついてるんだぞ、ああ?と、
錦糸町のチンピラみたいな事を言ってる)
一応、大乗仏教の形式を持っていた可能性もありますが、
基本的には、もっとむき出しの状態で日本に入ってきているはずです。
それが、なぜか仏教とされてしまった。
役
小角の話は、平安期に仏教説話としてまとめられたものが多く、
「よくわからんが舶来宗教だから仏教だろう」
くらいの勢いで、後世にそうされてしまった可能性もありますが。
とりあえず、ここら辺からして、日本における「仏教」が、
間違っても、仏陀の目指した、“この世界からの永遠の解脱”ではない、
というアタリがよく理解できる話となっています。
あくまで、それはステキな魔法であり、現世利益をもたらすもの、
そして、来世や極楽浄土を約束するもの、なのです。
何度も生まれ変わる、という輪廻転生はインド独自の考えで、
これを仏教は取り入れてます。で、日本の仏教では、
「仏教に入って来世こそはいい人生で!」
とか
「皆で仏教信じてレツゴー!極楽浄土!」
とか言ってるものがほとんどですが、
本来の仏陀の目的は、この輪廻転生の輪から脱出して、
さあ、進もう次のステージへ!という事なのです。
君たちは、輪廻転生の外にある、すばらしい世界をまだ知らない、
だから、この親切な私様は、そこへの行き方を諸君に教えてやるけんのう、
というのが仏陀殿下のメインテーマです。
よって、沙羅双樹の木の下で、みんなとバイバイした仏陀閣下は、
既にこの次元には存在しちゃまずいわけなんですね。
なので歴史上、何千人といるらしい自称“仏陀の生まれ変わり”は
生まれ変わった段階で、仏陀ではない(輪廻からの脱出に失敗した)わけです(笑)。
でもって密教は、その“脱出手段”として、仏陀の教えを採用せず、
太陽神である大日如来が語る、という形で、新たに経典を作りあげ、
それを中心に宗教としての形を整えます。
(厳密にはさらにいくつかの基本的な思想があるが、今回はパス)
はい、今回の旅行記を読むにあたり、
必要となる密教についての知識は、大筋はこんなとこです。
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