■三金剛



公園内の普通の神社としては、建物もなかなか立派。
なんでこんなに立派か、といえば、当然、お金をかけてるから。
でもって、なんでそんなにお金をかけられるか、といえばスポンサーがいるから。
では、誰がスポンサーか、と言えば…



この人たち。
わかりますかね、賽銭箱の中央に、スリーダイヤモンドのシンボルが。
つまり、三菱。
かつての三菱財閥、そして戦後は三菱グループがこの神社のバックについてるのです。イヤーン。
それは、なぜか(笑)。

話は、できるだけ簡単にします。
理由は、旅行記でこれ以上脱線するのは何だし、何より面倒だから(最低)。

土佐藩きっての有名人、坂本竜馬が設立した海援隊から話は始まります。
竜馬は世界を相手に商売やりたくてやりたくてしかたなかった人です。
で、それをやるには幕府も藩もいらないから、とりあえず、先にそっちを片付けることにして、
倒幕活動中の間に、一種の会社、というか商社組織である海援隊を作ります。
が、これは竜馬暗殺後、事実上、崩壊してしまいました。

が、ここに、あれは使えたのではないか、と思う人が出てきます。
後に明治政府きっての金に汚い男となる、土佐藩の後藤象二郎です。
でもって、ここから先はイロイロわからん部分が多いので、
極めて簡単に書いてしまうと、藩の直営商社として、土佐商会が設立され、
それが発展したのか、分離したのかわかりませんが、次に九十九商会が設立されます。

この九十九商会のトップの座につくのが、岩崎弥太郎でした。
はい、三菱の創設者ですね。
そして、その九十九商会があったのが、ここの対岸、例の鰹座の横。
後に明治維新後、藩の膨大な借金を負担するのと引き換えに、
この蔵屋敷と九十九商会などの組織を、岩崎は手に入れることに成功した、とされます。
この時、藩がもっていた数隻の船を譲り受け、
これを元に海運業で、岩崎家は発展して行く事になるのです。

つまり、この場所、土佐藩の蔵屋敷跡は、三菱財閥発祥の地です。
そして、現在はマンションなどになっている公園の東側の場所に、
かつて岩崎家の屋敷がありました(ここも元は蔵屋敷跡)。

後に1829年、現在は我が家の庭として私が認める東京 湯島の岩崎邸に
一族で移住するまで、三菱はその基盤を大阪、そして
土佐藩の遺産であるこの地に置いていたのでした。

余談ながら、脱藩していた竜馬も、この屋敷をどうも訪れたことがあるようです。
このすぐ北(徒歩10分以内)には薩摩藩の蔵屋敷もあり、
この周辺は、幕末のきな臭い時代に、後の歴史に名を刻む連中が、
ウロウロしていたエリアでもあります。



なので、神社の外をぐるっと囲む石柱は、三菱系優良企業の名と、関係者の名がずらり。
旧三菱銀行が、商事より前にいる、というのはちょっと興味深いところ。



日本郵船は厳密には半分だけ三菱なんですが、まあ関係会社か。
ここら辺はGE(ゼネラルエレクトリック)とエジソンの会社の関係に似てます。

まあ、土佐藩の蔵屋敷跡にして、三菱財閥の発祥の地が、この公園なんですね。
が、さすがにそれだけを見に来たわけではなし。
目的はもうひとつ、この神社の横にある、岩崎邸跡。
現在、東京は湯島の岩崎邸すぐ近所に住んでる身としては、
(こっちは弥太郎死後の建築。いかにも弥太郎の家みたいな案内をしてるガイドさん、多いが…)、
そこも見ておくか、と。

が、別にそんなに岩崎弥太郎のだんなが好きなわけでもなく、
ここに来てみよう、と思ったのは岩崎邸跡、
つまり土佐藩蔵屋敷跡は不思議な縁とでも言うべきものに恵まれている場所だから。
今では、ここまでどうでもいい空間になりながら、
これほど、日本のあらゆる面で影響力のある人々が集まった場所は
ちょっと珍しいのではないか、というポイントだからです。

明治が進み、三菱もその活動地を東京に移して、しばし、この地は歴史から消えるのですが、
戦後、昭和30年代になって、ここで不思議な縁が生まれることになります。

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