■縁とゆかりで、世界は動く
というわけで、神社の東側。
この道路がいつ造られたものかは判りませんが、元はこのアタリも蔵屋敷のはずで、
右手に見えてるあのマンションのアタリが、後の明治期に岩崎邸があった場所。
そして、その跡地にあった……あった…。
あれ?
ああああああああああああああああああ、あのマンションはははあああ!
あわてて、公園の東北方向にある建物を見に行く。
で、驚く(笑)。
あああああ!これだ!なんと現存してましたか、この公団アパート!
この左手の外壁の模様は、見覚えがあるでヤンス!
なんてこったい!とっくに取り壊されてると思ってた!
というわけで、今回の目的のひとつがこれです。
旧公団住宅 西長堀アパート。
まあ、現存してるとは思ってなかったので、
本来はその跡地を見に来たんですけどね…。
東京タワーと同じ昭和33年に完成した
この住宅公団(現UR)マンションは、当時としては超高層(11階建て)住宅で、
そのころの時代の最先端、大阪の六本木ヒルズみたいな存在でした。
住宅公団の中でも、まあ頂点に立ったであろう賃貸物件です。
西長堀アパートという名前(現在は名前が変わっている)や
公団住宅という先入観で捕らえるととんでもない、という高級賃貸住宅。
なので、当時、このアパートに入居したのは、大阪でも
トップクラスの収入を持つ人たちで、
その中には、芸能人、プロスポーツ選手、作家などが含まれます。
具体的には、ほぼ完成直後から女優の森光子さん、
完成翌年の年末から司馬遼太郎さん、
そして時期が特定できないのですが、
あのプロ野球の野村監督(まだ選手時代からかも)、
さらに、それにつられて江夏をはじめ、南海の主力選手の一部が、
ここに住んでいたはず。
つまり司馬遼太郎さんは、例の記念館の地に移る前に、
このマンションに約4年半、住んでいました。
再婚後、独立してここに引っ越してきたわけです。
(推測ですが、最初の結婚生活の失敗に懲りて、
家を出たんじゃないか、と思いますが、証拠は何もなし)
よってこの土佐藩の蔵屋敷跡に、そして岩崎弥太郎の家の跡地に、
あの司馬遼太郎が住んでいた、という事です。
これで何も起こらないはずがない。
念のため、反対側からも確認。
間違いない、この建物だ。
この右手(北側)に、今は埋め立てられた長堀川があり、
その上にかかってた例の鰹座橋の上で、
司馬さんがタバコ吸ってる写真が残ってますね。
さて、というわけで、昭和34年12月にこの地に来た福田さんこと司馬遼太郎。
近所に中央図書館はあるは、公文書館はあるは、で
まあ、これほど便のいい場所も珍しかったでしょう。
(もっとも、当時から神保町での古本買占めはやってたらしいが…)
やがて古地図を見て、かつて土佐藩の蔵屋敷跡であることに気が付き、
さらにこの建物は岩崎邸の跡に建っている事を知ります。
これで当時よく散歩してた、となりの公園の稲荷神社の神主さんが、
なぜ三菱のOBばかりなのか、という謎が解けるわけですが、
(逆に神主さんから教わった可能性もある)
ここから縁もゆかりもなかった土佐への興味がスタートした、と考えていいと思います。
もっとも、彼は岩崎弥太郎にはさほどの興味はなく、
それに絡んで出てくる後藤象二郎もまあ、金に汚い男ですから、
両者とも、若いころの司馬遼太郎の興味を引くタイプの人物ではありません。
が、ここで、九十九商会にぶつかります。
ちなみに九十九(つくも)は土佐湾の別名、九十九洋から来ており、
どんどん脱線すると、千葉の東にある九十九里浜の元ネタも多分これ。
九十九里浜の名については、千葉県の小学生は、
「九十九里あるから、あるいは頼朝が矢を打ちながら測量したら99本で終わったから」
という話を、血ヘドはくまで叩き込まれますが、まあ、ウソでしょう、これ(笑)。
勝浦などの地名や鰹節を生産してる事からわかるように、
紀伊半島、土佐方面から、黒潮にのってイヤッハー!とばかりに多くの漁師さんが
房総半島(千葉県)には流れ着いて、定着してます。
地名や、生活様式に両者の共通点が多いのはこのためですが、
九十九里浜も、デッカイ砂浜やき、九十九を思い出すき、といったトコで
そのまんまの名前がつけられた、と考えるのが自然でしょう。
さて、話を戻しましょう(笑)。
先にも書いたように、九十九商会は海援隊につながり、
言うまでもなく、海援隊は坂本竜馬につながります。
司馬遼太郎の初期作品は、忍術魔法小説(と見せかけた密教思想なんだが)が
数多く、私たちが司馬遼太郎、と聞いて思い浮かべるような作品は皆無です。
が、彼は徐々に、坂本竜馬と言う男に強烈に引かれはじめ、
その小説の主題にする、という結論に達することになります。
この地に移り住んで2年半、若き司馬遼太郎のなかで、
静かに蓄積され、そして昇華された男の小説が始まるのでした。
昭和37年6月21日、産経新聞にて「竜馬が行く」連載開始。
事実上、この時をもって、後に司馬遼太郎の作風と認識される
最初の小説が世に送り出された、と見ていいと思います。
それは、この地によって生み出された、
とまで言ってしまえば言いすぎでしょうけども、
もし、彼がこの地に移り住まなければ、おそらく後の作風は大きく変わっていた、
というのは断言できるような気がします。
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