■高野山真言宗統合幕僚本部総司令室
これが本堂というか、総本部。
1864年、幕末ギリギリという段階で再建されたもの。
この時期だと、高野山、まだなんとか自分の領地を持っていたはずなので、
まあ、領内のお百姓さんの血と汗と涙で作られた立派な建造物ですね。
(一般に寺社領内は、年貢に関しては最強最悪な地域だった)
内部はあきれるくらい細かく仕切られた部屋に分かれており、
個人的には二条城を思い出しました。
…この再建のタイミングと言い、明治以降の動きといい、
この建物の構造といい…高野山の皆さん、幕末期に「一旗あげようぜ」
位のこと、考えていたような気がしなくもなくもなく…。
考えすぎですかねえ…。
正面入り口。大玄関と言うそうな。
本来、偉い人用で、現在もエライ人用。
犬と一般人は近づいてはなりません。
で、背後から声がする。
振り返ると団体さんが!
中国の団体さんも、アメリカの団体さんも、日本の団体さんも、
団体にならないのが良い団体さんだ、が私の信条ですので、巻き込まれないよう、
さっさと、この建物の内部見学に行きましょう。
ちなみに、塀の内側には線がないんですね。
あくまで、周囲の威嚇用なのか、5本線。
庶民入り口から入ると、すぐ右に入場券売り場が。
ここでセットでお得な入場券があるよ、というので、それを買う。
なんでも、高野山心臓部周辺の施設に、これで全部入れるそうな。
で、この建物、中に入ってみると「襖絵の撮影禁止」との注意書きが。
あれま。
内部のほとんどの部屋に襖絵があるんで、事実上、ほぼ撮影禁止。
なので、こんな写真のみ。
まあ、撮影禁止は仕方ないと思うので、しょうがない。
ちなみに、この本堂の一番奥、正面から見て左端に、
豊臣秀次自刀の間、というのがありました。
あの、秀吉の甥っ子(姉の息子)で、秀吉から跡継ぎに指名されながら、
秀吉に実の子供が出きたとたん、追放され、さらに自害を強いられた彼ですね。
秀次は、出家、つまり相続権の放棄を示して高野山に来るのですが、
晩年の秀吉の執念深さは尋常ではないですから、結局、ここで死を選ぶハメになります。
高野山で、切腹するのです。
…で、1598年に秀次が切腹した部屋が、
1846年に再建されたこの建物にある、という話ですね?
………はい(笑)。
ここで考えうる合理的名説明は、
●この部屋に使われてる襖絵が、当時、秀次が切腹した部屋のもの、
という話なのだが、細かい説明を金剛峰寺が省いちゃった。
●数々の火災に見舞われながらも、秀次が自害した部屋は天文学的な確率を潜り抜け、
奇跡的に焼け残っており、この建物の再建時に、内部に組み込まれた。
●秀次は時間跳躍能力があり、実は幕末1864年の7月、池田屋事件の直後に切腹してたのだ。
●裏でドラえもんが一枚かんでる。
といったあたりでしょうか。
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