■その名はやけに長かった
かつて隅田川の辺、南千住の近所に、航空関係の高等専門学校があって、
ウッカリとエンジンの設計図を燃やしちゃったりしてた、
などというウワサは細々と聞いていておりました。
が、これが東京都立産業技術高等専門学校荒川キャンパスという、
覚えるのに3年くらいかかりそうな長い名前の学校として再生、
さらに隅田川の名を捨てて、所在地の荒川区の名前を取ってしまったため、
千葉にある江戸前寿司みたいな変な事になってると知ったのが去年辺り。
で、ほぼ同時に科学技術展示館という結構興味深い航空機関係の展示施設がある、
と聞いたのですが、なにせ相手は学校であり、通常は公開してない、と知り、
それっきり忘れてました。
が、今年11月のアタマの連休の学園祭ではこれを公開するのだ、
と知りさっそく訪問してみたわけです。
でもって、訪問してみたら、その施設のレベルの高さに驚愕、
ここにあわててレポートを書いてる、となります。
ちなみにそれ以外の日にも年数回、公開はしてるのですが、
ほとんどが平日となっており、なかなか厳しいです。
ついでに明治から大正にかけて、南千住と墨田川の間のこの地区は、
かつてなら豪邸というか都心を離れた富豪や政治家の別荘と
高級料亭が建ち並んでいた高級住宅地域でありました。
平成の高輪、赤坂なんざ裸足で逃げ出すような界隈だったんですが、
今じゃ想像しづらいですね(笑)。
それが昭和になってから急速に工業都市化し、
正直に言ってしまうと、やや荒んだ地域となり(泪橋まで歩ける距離)
さらに平成に入ってからは
再開発によって全て更地にした挙句、団地だらけの殺風景な地帯になる、
という変な場所だったりします。
上野から自転車で20分、という距離ですが、
どこの埋立地だ、というような不思議な非人間的空間となっています。
東京の東側には、なぜかこういう殺伐とした地域が多いです。
ついでに脱線しておくと、この横にあるのが隅田川の白髭橋ですから、
その名前からして東京というか江戸というか、武蔵野国というか、
相当古くから朝鮮半島経由の入植が始まっていたと思われる一帯です。
で、その科学技術展示館に入ってビックリ。
正直、学校の裏の古い校舎か講堂に、いろんなものが山積みなってるんだろう、
ぐらいに考えていたのですが、ご覧のような見事な建物。
何より余計なものを一切置かず、機体展示に配慮してるのに驚きました。
が、それ以上に驚いたのが展示の機体。
まず、聞いた事も無いような機体がいくつもある、
そして、どれも見事なコンディションを維持している、という点。
画面に見えてるF-86Dに関して言えば、
「私が見てきた中で」は世界最高のコンディションで、
すべてがオリジナルのまま。
おそらく、今では誰も知るまい、といった情報だらけでした。
そんな感じの素敵な施設、に展示されていた航空機は
その8割が存在すら知らなかった機体でして、
あくまでわかる範囲でのみ、今回の記事では書いてゆきます。
まずはこれ。
展示にあった機種名の表示が
航空高専(この学校の以前の名称)ストルプ SA300スターダスター ツー
となっていたので、一瞬、学校による開発?と驚いたんですが、
これはアメリカのキット航空機メーカー、Stolp(ストルプ)社が売り出していた
ストルプ スターダスト ツー(Stolp
Starduster Too) SA300 でした。
Starduster Too
って名前、これもスターダスト、で訳はあってるんでしょうか…。
いわゆる日曜大工機(Homebuild
airplane)ですが、
ここまで大型の機体が個人で製作するキットで売られてるとは初めて知りました。
でも一般人が木製機を組んで、構造耐久試験とかどうするんでしょうね…。
ちなみに本来はスポーツ用の機体で、設計上は実に6Gまで耐えられるとか。
うーん、下手なレシプロ戦闘機並の耐G性能(笑)…。
なので本来はエアロバティック用ではないものの、やればできる、との事。
展示の機体は、どうも自作機同好会という学内の組織の代々の卒業生が、
卒業制作として組んで行った様で、
購入が1968年なのに、完成は実に1976年、初飛行は1977年となってます。
よく途中で部品を失くさなかったなあ(笑)…
ちなみにこの機体、1976年の今では伝説となった
入間基地の航空宇宙ショーに出展、展示されたそうな。
あのF-15(サンダーバーズ塗装)とF-14がそろって来日、
売り込みのデモ飛行を行なった航空宇宙ショーの片隅に
これがあったのか、と思うと少々、感慨深いものが。
ついでにこの機体、今でも売ってまして現在価格は約15000ドル。
ざっと150万円といったところで、車買うと思えば、なんとかなるのか。
もっとも当時の円相場を考えると、現代の高級車並の値段だったと思いますが。
さらに主翼、胴体、などを別々に買って少しずつ揃えて行くことも可能らしいです。
おそらく教材として使われてるのでしょう、
右の下翼は表面が透明のビニール張りとなって、
中の構造が見えるようになっていました。
外からだと分かりませんが、なるほど確かに木製機ですね。
翼断面系のパーツを桁でつないで主翼が形造られている、
というのも、よく分かります。
これまた全く知らない機体、東洋フレッチャーFD-25B。
財団法人の航空協会から、航空遺産として認定されてる機体だそうな。
でもって、まず東洋って何?と思ったら、1952年ごろに神奈川で設立された
東洋工業という航空機メーカーだそうで、自動車のマツダとは無関係らしいです。
紫電改の川西関係者の会社らしいですが、詳細は不明。
ちなみに1952年はサンフランシスコ条約によって、
日本の航空機産業への規制が解除された年ですね。
でもって、そこが1941年にカリフォルニアに設立された
フレッチャー アヴィエーション(Fletcher
Aviation)という怪しげな
航空機メーカーのFD-25なる機体の製造権を購入、
日本で12機だけ製造したのが、この機体らしいです。
ちなみにフレッチャー社自身は3機の先行試作機を造っており、
計15機が生産された事になるはず…って、
そこまで調べてどうするんだ、私…。
で、最初に見たとき、この機体なんで主翼の下に
装備取り付け用のパイロンが…と思ったんですが、
帰宅後に調べて見たら、これは立派な軍用機なのでした。
展示では書かれてませんが、FD-25はディフェンダー(Defender)、
防御者の名前を持っているのです。
フレッチャー社は最初、米軍に軽攻撃機として売り込もうとして失敗、
当時いくつかあった怪しげなアメリカ政府からのパイプで、
日本の東洋工業が製造権を獲得したのだとか。
半分、ダマされてるんじゃないかなあ、これ…。
いくら軽攻撃機といっても、コンチネンタルの225馬力エンジンじゃ、
実質的には何もできないんじゃないか、という気が。
最終的に、1961年、倉庫に眠っていたこの2機を
当時の航空高専が購入したのだとか。
でもって問題は残りの10機ですが、これは南ベトナム政府と、
カンボジアに売り飛ばされ、輸出されました。
攻撃型と、複座の練習機型があったとされますが、
どっちにしろ、立派な軍用機であり、実際、現地では軍が使っています。
誰がどこから見ても武器輸出ですよ、これ(笑)…。
もっとも、日本政府が武器輸出を事実上禁じるのは
1960年代以降なので、まだおおらかだったんでしょうね。
ちなみに、そんな機体ですが、アメリカの試作機と、
ベトナムに渡った1機が現存する、という情報があるので、
最低でも4機現存している、恐るべき生存率を誇る
不思議な機体でもあります(笑)。
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