■先駆者の皆さん



さて、お次は飛行の開拓者たちの部屋…というか入り口上の2階の広場を使った展示。
前回来たときはなかった展示です。

名前の通り1920年代前後に活躍した飛行士たちの活躍に焦点をあてたもの。



なんだかボンヤリした印象の機体だなあ(笑)と思ったんですが、
1923年に初めてアメリカ大陸横断無着陸飛行を行なった
アメリカ陸軍のフォッカーT2。
既に見たように、途中で着陸、給油を行ないながらのアメリカ横断は
行なわれていたのですが、無給油、無着陸はこの機体が最初です。

が、フォッカー T2なんて機体初めて聞いたぞ、と思ったら、
フォッカーのF-IV(4)を陸軍が購入、輸送用(Transport)の2番目の機体、
(1番目が何かは不明)としてT-2と改名したのだとか。
いやでもフォッカーのF4番なんてあったっけ?とこちらもよくわからず、
帰国後調べたらアメリカ陸軍のために2機だけ造られたのだそうな。
…たったの2機なら、名前、統一したらどうでしょう…。

そんな機体ですが、1923年の5月に東海岸のニューヨークから
西海岸のサンディエゴまで26時間50分の記録で飛んだとか。



機首部にヤケに小さくシカゴ、
と書かれてるダグラス ワールドクルーザー(DWC) シカゴ号。

これも陸軍の航空部門が主体となって行なわれた,
史上初の世界一周飛行の挑戦に使われた機体です。

アメリカのダグラス社で4機造られたワールドクルーザー(DWC)は
1924年の夏に世界一周の飛行に飛び立ち、175日かけて2機がアメリカまで帰還、
史上初の世界一周飛行を成功させました。
ちなみに、彼らが日本に立ち寄ったときの写真が残ってるのですが、
それを見るとフロートつけて霞ヶ浦で浮いています。
(この段階では3機が残ってた)
太平洋地域では万が一に備え、海に着水できるフロートを装着してたんですかね。

ついでながら同時期にイギリスも同じような計画を持っており、
ヴィッカースの水上機で日本(大阪)まで来たのは確認できるのですが、
その後どうなったのかよくわからず…。

展示の機体はその生き残りの内の1機、シカゴ号。
ちなみにもう1機の生き残り、ニューオリンズ号はF-20のとか複座のA-12とか、
どこが自然史やネン、というツッコミどころ満載の
ロサンジェルスの自然史博物館にあります…
と書いてから確認したら、あれ、今はサイエンスセンターなる
博物館が新たに出来て、そっちに移動したみたいですね。
(ここの訪問は15年以上昔、カメラも持っていかなかったので旅行記は書いてない)



パイパー社のベストセラー小型機、J-2 カブ。
1930年代、急速にアメリカの航空産業が台頭したときに、
安全で操縦が容易、さらに安価というカブが大ヒットとなったのだとか。
J-2はカブシリーズの最初の機体で1935年から38年の3年間だけで
1207機も造られた、とのこと。

ちなみに当時の価格で1機1407ドル、
1時間あたりの貸し出し料金が10ドルだったとされます。
例によって消費者物価指数(CPI)で比較すると、
2013年で価格でざっと24,000ドル、約240万円、
1時間辺りの貸し出し費が170.5ドルで約17500円。
うーん、これらな普通のサラリーマンでもなんとかなりそうな感じですね。



来ましたカーチスR3C-2、
1925年のシュナイダートロフィー レースで優勝した水上機です。

名前とスタイルから分かると思いますが、宮崎駿監督の「紅の豚」で
主人公のライバルが乗っていた機体のモデルがこれでしょう。
当然、この機体は武装は積んでませんが。

先にも書いたように、フラップが無かった
(オーヴィルが発明済みだが普及してない)
当時は陸上機よりも好きなだけ滑走距離が取れた水上機の方が、
高速向けに設計された機体の運用に向いてました。

そんな時代にヨーロッパで行なわれたのがシュナイダートロフィーの水上機レースで、
そこで当時、航空機後進国だったアメリカに初めて栄冠をもたらしたのが、
1923年のカーチスのCR-3という機体で、このC-2はその後継機でした。

でもってこのR3C-2も平均時速374.3qを記録して1925年に優勝、
アメリカの連覇を成し遂げた機体となります。

もっとも、その次の大会ではイタリアが巻き返して優勝、
以後、アメリカ機の優勝は無いまま、イギリスが3連続優勝してしまい、
ルールによってトロフィーの永久所有権を獲得、レースは終了となってしまいました。

が、これによってアメリカの航空機も世界レベルに達している、
という事が証明され、以後のアメリカの航空産業にとって、
大きなはげみとなったと思われます。

で、2度目の優勝を果たした、このR3C-2に乗っていたのは
東京爆撃で有名な、あのドゥーリトルでした。
(最初に優勝したR3Cのパイロットは別の人)
彼は若い頃は陸軍の軍人でありながら飛行士として名を売っており、
数々のレースに出場していたのです。
以後、軍を退役して石油会社のシェルに入り、
高オクタンガソリンの開発などに参加していたのですが、
開戦と同時に軍に復帰、東京空襲を立案することになります。

なので、あの作戦は“あの有名なドゥーリトルが率いた作戦”
という宣伝がアメリカ国内では行なわれるのです。
ちなみに、東京空襲のおかげで日本では目の敵にされがちな
ドゥーリトルですが、人間的にも立派な人です。

ついでに、シュナイダートロフィーには
後にイタリアの多くの戦闘機を設計するマリオ・カストルディ、
さらにはイギリスの救国戦闘機、スピットファイアを設計した
ミッチェルなどが参加しており、当時の航空技術の向上に
かなり大きな影響を与えていると考えていいでしょう。


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