■皆も眠ってる
で、これがお墓です。
右側に聖火のように炎がともされてますが、
これは基本的にずっと点いたままなんだとか。
ワシントンD.C.の街中からも、その火が夜中になると見える、とガイドブックにはありましたが、
ここから周囲を見渡す限り木に囲まれており、ワシントンメモリアルの展望台、
あるいは国会議事堂の屋根の上にでも上らない限り、見えないでしょう、これ。
ちなみにもっとお花とか置かれてるのかな、と思ってたんですが、意外に質素でした。
どうも遺族の人以外が花などを置いてゆくのは禁止されてるみたいですね。
奥に見えてるのは例のアーリントン ハウスで、この墓所は、
この霊園の中でも、まさに一等地と言う場所にあるわけです。
ちなみに、大きな石版が二つあるのは夫婦でここに葬られてるから。
左が大統領本人で、右が奥様のジャクリーンさん。
ただしこの奥様、大統領の死後、ギリシャの大金持ちオナシスと再婚しており、
お墓にはジャクリーン ケネディ オナシスと、一体誰なんだと言う名前が刻まれてました。
余計なお世話だと思いますが、極めて夫婦仲は悪かったので、
(そもそもケネディは極めて女癖が悪い)
わざわざ死後にまで一緒にしなくてもよかったのでは…。
ちなみにジャクリーンは1994年まで存命でした。
なので当時の民主党大統領の夫人、後の大統領候補で国務大臣である
ヒラリー・クリントンにアドヴァイスを与えていたそうで、
ヒラリーの自伝では極めて好意的に言及されてます。
彼女の葬儀に当時のクリントン大統領が参列したのは、
ヒラリーとのつながりの結果でしょう。
(クリントンは歴代大統領でも特に夫人からの影響が強かった。
浮気問題で距離が出来た一時期を除き、二人で一人の大統領だったとような印象すらある。
F・ルーズベルト、レーガンも奥さんの影響が大きい大統領で、人事にまで口を出されてるが、
それでも政策レベルでまで奥さんを全面参加させたのはクリントンが最初だろう。
実際、頭の回転と決断力だけなら、ヒラリーの方が上だと思う。
それが在任中に浮気がバレたんだから、まあ気の毒というのも生ぬるいというか…)
でもって実は良く見ると、さらに小さな石板が大統領の左側に。
誰だこれ、と思ったら1963年、パトリックの名前が見えたので、
これは気の毒にも生後すぐに無くなった4人目のお子さんでした。
あれ、そうすると…
あ、やはり、こっち側にもう一人居ました。
1956年、最初の子供のお墓ですね。
この子は死産だったため名前は無いようで、単に娘(Daughter)とのみ書かれていました。
ケネディ大統領は生前に4人の子供を授かったのですが、
無事に育ったのは息子のジョン
Jr.と、娘のキャロラインの二人のみだったのです。
ところが、その生き残りの一人、
ジョン・ケネディ Jr.は1999年に38歳の若さで航空機事故で無くなり、
未だにケネディ家の呪いは解けてないのか、と言われる事になりました。
実際、ケネディ家の長男が航空機事故、
というのは確かに不気味な印象があります。
実は民主党に強い影響力を持っていた父から政治家になるべく
期待を掛けられていたのは、ジョン.F.ケネディではなく、その兄、ジョセフでした。
ところが、ジョセフは第二次大戦中、航空機事故で死亡してしまったのです。
その結果、次男のジョンが政治の世界に入って大統領にまでなるわけですが、
彼は暗殺されてしまい、さらにその息子、次の世代のケネディ家の長男が
またも飛行機事故で死亡、となるとさすがに不気味なものはありますね。
しかも、事故死した二人とも、父親の名前をそのまま引き継いだJr.の名を持つのです。
(ジョセフ・ケネディ・Jr.とジョン・ケネディJr.)
でもって2013年から駐日大使になったキャロライン ケネディさんは、
ただ一人、ケネディ大統領の血を引く生き残りです。
彼女の駐日大使任命は、事実上の選挙協力への報酬ですから、
ケネディ家の民主党への影響力は健在、というところでしょうか。
余談ですが、ケネディ家をアメリカきっての名家にのしあげた、
ジョセフとジョンの父、ジョセフ シニアは、事実上のインテリヤクザです(笑)。
(ハーバードを出てるが、その仕事はマフィアそのものだったと見ていい)
そういえば、この人も金を出した上にアメリカ中のマフィア票をかき集めて、
フランクリン・ルーズベルトを当選させ、駐英大使に任命されたのでした。
(この時代のマフィアは労働組合を握ってるので、彼らを動員できる、
ということはアメリカ中の労働組合票を手に入れるに等しい。
ついでにルーズベルトがあれだけの戦時大生産が出来たのは、
民主党にべったりだったマフィアを通じて労働組合を抑えれたのが小さくない)
それが票と引き換えの名誉職であった証拠に、
ケネディのパパは第二次大戦開戦直後に解任されてます(笑)。
ちなみに、彼が息子を大統領にしようと決心したのは、
本人がなりたくてなれなかったからだ、と言われております。
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