■センチュリーズ in ベトナム



さて、お次はいわゆるベトナム世代の機体を見て行きましょう。
まずはノースアメリカン F-100D スーパーセーバー。

100番台ナンバーの戦闘機、いわゆるセンチュリーシリーズの一番手で、
1953年に初飛行してるものの、朝鮮戦争には間に合わず、
ベトナムで実戦の洗礼を受ける事になった機体です。

展示の機体は一時期日本に配備された後、1965年からベトナムに移動、
1970年まで数度の損傷を受けながら現地に留まった機体だとの事。

ノースアメリカン社のP-51、同じくF-86とアメリカ空軍が配備してきた、
航空優勢を維持する、一連の純粋な戦闘機、その第一世代の最後の機体ですが、
これもD型からは核爆弾搭載可能の戦闘爆撃機に改造されてます。
まあ、この時代はSAC、戦略航空司令部の全盛期ですから、
核爆弾なくば空軍にあらず、という感じなので、しかたないとこなんでしょう。

が、この機体の後からアメリカ空軍の戦闘機は悪夢のような迷走に入ってしまうことに。
センチュリーシリーズから海軍からの借り物F-4ファントムII、
そして偉大なる迷走F-111と、空の戦いを制する航空優勢戦闘機としては、
どれもこれも目もあてられぬ、といった機体の時代が続きます。

この間、ベトナムではソ連製の軽快な機体、Mig-17、Mig-21といった
戦闘機たちとの戦いを強いられ、さらに地対空誘導ミサイルの登場が重なって、
アメリカ空軍は苦しい戦いが続くことになるわけです。

以後、航空優勢戦闘機の第二世代、ボイドが空軍の横っ面を張り倒して
そして張り倒され返して(笑)なんとか形にしたF-15、
完全にやりたい放題だったF-16で、ようやく“空で戦える”戦闘機が
アメリカ空軍に帰って来る事になります。

このF-100は、世界初の超音速飛行が可能な戦闘機なんですが、
正直言ってそれだけ、という感じの機体になってしまっています。
操縦はクセの強い機体の上、設計不備による事故も多く、
それでいて、明確にソ連のミグ戦闘機に対する優位もありません。

なんともノースアメリカン社の衰退を象徴するような機体で、
結局、ベトナムでは戦闘機としての使用はあきらめ、
戦闘爆撃として運用される事になるのです。
実際、最後まで1機の敵も撃墜できずに終わってますしね。

ちなみに超音速飛行と言っても、アフターバーナーを点火した短時間のみで、
一瞬だけ使える最後の手段みたいなものです。
ただし、ここら辺りはF-22などの一部の機体を別にすれば、
どんな超音速戦闘機も条件は同じですけども。

そしてこの機体を最後に、名門ノースアメリカン社の戦闘機が
以後アメリカ空軍に採用される事は無く、
同社は静かに消え去る事になります。



これもベトナムを象徴するセンチュリーシリーズ、
リパブリック社の F-105D サンダーチーフ、通称サッド。

この機体は最初から戦闘爆撃機であり、Fナンバー(Fighter/戦闘機)
の機体のクセに核爆弾搭載能力を重視して造られた、という妙な戦闘機でした。
結局、その巨大な核爆弾運搬用の兵器搭載能力を買われ、
ベトナム戦争の全期間を通じて爆撃機として運用されます。
最初から最後まで、設計目的通りの運用がされなかった機体、とも言えます。

ただし、それでも戦闘機らしい一面は残しており、
“公式記録によれば(笑)”30機のMig17を撃墜しており、
センチュリーシリーズの中ではほぼ唯一、まともに戦えた戦闘機です。
実際の戦果はその半分以下としても、がんばったと見ていいんじゃないでしょうか。
もっとも、Mig21に対しては撃墜ゼロ、逆に10機以上が落とされたと見られてるので、
こちらには全く歯が立たなかったわけですが…。

実際、そのベトナム戦争中の損失は400機近くになっており、
これは全生産数約800機の約半数に当たる数字ですから、
凄まじい損失率といわざるを得ないと思われます。

ちなみに、損失数だけなら朝鮮戦争中に失われたF-51D(P-51D)と
ほぼ同じなんですが、そもそも投入された数が違いますから、
その消耗率ははるかに高かったと見ていいでしょう。

ついでにこの機体、全長20m、全幅10.5mという大型機でして、
単発機としてのサイズでは未だに世界最大の機体だったはず。
(重量だと、あのチョーメタボ戦闘機、F-35がほぼ同じクラスだが(涙)…)

展示の機体は、これもベトナムで数多くの実戦を潜り抜けてきたものらしいです。



ちなみに、これがF-86のとこで説明した1枚板の水平尾翼。
こんな感じに尾翼全体が動きます。

ついでに、なんだかジェットエンジンのノズルが分割して稼動になっており、
推力可変?とか思っちゃいますが、あれはエアブレーキで、
花のように四方向に開いて空気抵抗となり、着陸時に機体を減速させるもの。

ただし、重いこの機体を短い滑走路のタイの空軍基地から運用する場合、
これでは不十分で、基本的にドラッグシュートと呼ばれる小型のパラシュートを
尾部に搭載、着陸後にこれを開いて減速していました。
(離陸よりも着陸の方が長い滑走路が必要になるから、
出撃できても帰還できるとは限らない)

余談ですが、第二次大戦中の4発爆撃機ではブレーキが故障したり、
脚が出なかったり、あるいはフラップが故障して
低速での着陸ができなくなる事などがありました。
こうなると重い重爆撃機では安全な着陸と停止が不可能となり、
滑走路をオーバーランしてクラッシュ決定、という事を意味します。

こういった場合、与圧キャビンでなかったB-17、B-24などでは、
着陸時に機体横に開いてた機銃座の窓にパラシュートを縛りつけ、
接地と同時にこれを開く、という対応が行われてました。
人力ドラッグシュートとでも言うべきもので、成功率も意外に高く、
日常的に見られる対応だったそうな。

航空機にとって、キチンと停まる、というのは
空母への着艦に限らず、意外に重要なポイントなんですよ。



でもって、ベトナム時代のライバル、ソ連製のMig-21F-13。
西側によるコードネームだとフィッシュベッドのC型だとか。

ちなみに、この機体が北ベトナム側の主力戦闘機、と思われがちですが、
実際はMig-17が主であり、当時の新鋭機だったMig-21は
意外に少数派だったりします。

展示の機体は1959年に運用開始となったMig-21の極初期型、F-13で、
最初に部隊配備されたのがこのタイプだったようです。

ついでにMIg-21というと、電子機器をコクピットの後ろに詰め込んで
猫背で頭悪そうで、絶対夜中に冷蔵庫の牛乳コッソリ飲んでるやつ、
みたいな印象がありますが、ご覧のように、
初期型の機体では、コクピット後部もすっきりしていたのでした。
これなら一定の後方視界もあるでしょうし、スマートな形状ですよね。
このままだったら、カッコよかったのになあ…。

この運動性に優れた機体の登場に、アメリカ軍は散々悩まされ、
後にF-15が登場する一つの要因ともなりました。
ただし、これも本来は対核爆撃機の迎撃用だったようで、
そのため、航続距離はかなり短いものでした。
スパイの活躍でこの機体を無傷で手に入れたイスラエル空軍が
西側として初めて飛行試験を行なったとき、
その運動性に驚愕すると同時に、
すぐに燃料がなくなるのにも驚いてます。

他にも後退翼ではないデルタ翼でありながら、
コンコルドやF-102のように無尾翼ではなく、
普通に水平尾翼が付いてる、というユニークな設計なのも特徴の一つです。

ほぼ同時期にアメリカもF4ファントムIIで同じような
デルタ型の主翼を採用してるのが面白いところですが。
これは、どちらかがパクッた、というわけでも無く、
MI-21なんかは後退翼と尾翼付きデルタ両方の試作機を造って飛ばし、
デルタの方がいい感じ、という事でこのスタイルに落ち着いてます。

いずれにせよ、このデルタ翼+水平尾翼のスタイルが
アメリカとソ連の戦闘機の主流になって行きますが、
それに対してヨーロッパ系の機体は無尾翼デルタの道を選んで行き、
2014年現在に至ります。

どちらが優秀か、というのは一概に言えないのですが、
対レーダー、対赤外線のステルス性に関して言えば、
ジェットノズルをカバーできる尾翼ありデルタのほうが優位でしょう。

後は好みの問題、となる気がしますね。

ちなみにこの機体は空軍から寄贈されたものですが、
その詳しい来歴は不明だそうな。


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