■誰よりも速く

でもってお次は、意外に充実してるスミソニアンのレーサー機コレクションを。



まずは戦前の1936年に造られたレーサー機、ターナーRT14 ミーティア。
戦前の最速航空競技といえる、無差別級(Unlimited class)レース、
トンプソン トロフィーで2連勝した記録を持つ傑作機です。
なかなか美しい機体ですね。

大戦後のアメリカの無差別級(Unlimited class)レースは、
軍から安く払い下げられたハイパワー戦闘機が主流となってしまいますが、
戦前は専用に設計された機体での参戦が普通でした。

この機体は当時有名だったロスコー・ターナー(Roscoe Turner)という
レースパイロットが自ら資金を出し、設計にも参加して製作しています。

エンジンの目立つぶっとい胴体、思いっきり後ろにあるコクピット(尾翼のすぐ前にある)、
そして短い主翼に流線型のカバーが付いた短い固定脚と
戦前のレーサー機らしいデザインの機体となってますね。
ついでにレーサー機ながら離着陸距離を短縮するためフラップが付いてるらしいです。

この機体でターナーはトンプソン トロフィーに参戦、
1937年は敗れたものの、1938、39年とニ連勝、戦前最後の優勝者ともなります。
ちなみにターナーはこの機体の前にも一度1934年に優勝しており、
史上ただ一人トンプソントロフィーで3勝した人物でもあります。

ついでだからアメリカのエア レースに歴史についても少しだけ説明しましょう。

アメリカで本格的なエア レースが人気となったのは、
1920年に始まったナショナル エア レースからでした。
後に大恐慌の余波を受けたり、戦争による中断があったものの、
ナショナル エア レースは1949年まで毎年、開催され、
年に一回、10日近くに渡って、さまざまなレースが開催されるこのイベントは、
国民的な人気を集めたといわれます。

その中で最高峰に位置づけられていた二大レースが、
短距離高速レース、現在のエア レースと同じジャンルのトンプソン トロフィーと、
現在は消滅したジャンルである、航空機による大陸横断レース、
ベンディックス トロフィーでした。
どちらも、優勝者は当時の国民的英雄扱いだったみたいですね。



短距離レースの最高峰、トンプソン トロフィー レースの賞品、
トンプソン トロフィーの実物。
スミソニアンの航空宇宙本館、黄金時代の間におかれていました。

レースの勝者には、このトロフィーが贈られる事になっており、
ゆえにトンプソン トロフィー レースなのでした。
ついでにスポンサーのトンプソン社はエンジンパーツで
有名な会社だったそうですが、私はよくは知りませぬ。

こういった各種トロフィーを賭けて戦う、というのが当時のレースの流行で、
水上機の国際レースとして有名なシュナイダートロフィーも、同じようなものでした。
が、こんなのもらってうれしいか、と聞かれれば、普通は微妙なとこでして(笑)、
実際は優勝者には高額の賞金が約束されていたようです。
ちなみに戦前最後のレースとなった1939年の
トンプソン トロフィー優勝賞金は1万6000ドル。
1940年のアメリカ人平均年収が1750ドル前後とされますから、結構な金額でしょう。



同じく本館に置かれていたベンディックス トロフィーの実物。
こちらは今では見られなくなった大陸横断レースの賞品で、
ニューヨーク〜ロサンジェルスといった長距離で争われたもの。
当然、ゴールはその年の開催地となります。

だいたい7〜8時間で決着がついたようですが、
なぜか賞金はトンプソン トロフィーより低く、1939年で9000ドルでした。

で、ナショナル エア レースは戦争で5年間中断された後、
1946年から再開されるのですが、戦前とは全く異なる姿に変わってしまいます。

もはや以前の専用レーサー機によるレースではなく、
安く払い下げられた第二次大戦の戦闘機がその主な参加機となってしまうのです。
なにせ軍用の強力なエンジン積んでる戦闘機が安く手に入るんですから、
そりゃ大戦機を使うよな、といわけで。
軍用機でも参加可能となると、戦前のような民間機で
これに勝つのは困難になってしまったのです。
ちなみにトンプソン トロフィーでは1946年 P39Q、
1947&1949年 F4U-1、1948年 P51Dが優勝し、
ベンディックス トロフィーでは1949年の中断までP-51C&Dが4連覇します。

ところが、1949年に民間人を巻き込む墜落事故が発生、
ナショナル エア レースの以後の開催は中断されます。
その後は自然消滅の形でこの国民的な空のイベントは消えてしまいました。

が、1951年になぜか空軍主導の下、トンプソン トロフィー レースが単独で復活、
そこに最新鋭のジェット機が参戦して来た結果、優勝は常に空軍機ばかり、となります。
でもって1961年にB-58ハスラー(笑)が優勝、その歴史は幕を閉じるのですが、
基本的にこの1951年以降のレースは別物、と考えた方が良さそうです。
そもそも、もはやトンプソン社はスポンサーを降りてますし…。

ちなみに、この国民的イベントをしのんで、
1964年から開催されてるのが、現在のリノ エアレースとなります。
こちらもナショナル エア レースと紹介される事がありますが、
規模も人気もだいぶ違いますから、基本的には別物と考えていいでしょう。

ついでに脱線しておくと、このトンプソン トロフィーレースを含む、
年に一度の空のお祭り、ナショナル エア レースは第二次大戦に向け、
さまざまな影響を世界に与えています。
それをちょっとだけ触れておきましょう。

まず、あの東京爆撃で知られるドゥーリトルが参戦しており、
1931年には大陸横断レースのベンディックス トロフィー レースで優勝、
翌1932年には短距離のトンプソン トロフィーで優勝しています。
ちなみに以前に紹介したように、
彼は1927年にシュナイダー トロフィーでも優勝してますから、
当時の世界最高峰レース パイロットと言っていいでしょう。

なので、東京爆撃がアメリカで報じられたとき、アメリカ人にとっては、
あの空の英雄がやりやがったぜ、という感覚だったわけです。

でもってこの戦前のナショナル エア レース向けのエンジン開発から、
高圧縮でもノッキングを起こさないガソリンの研究がシェル社で始まり、
ドゥーリトルもこの開発計画に参加していました。

その結果、いわゆる100オクタン系のハイオクガソリンが完成するわけです。
1936年の航空雑誌、Flightの4月号には、トンプソン トロフィーでは
もはや誰もが100オクタンガソリンで飛んでるぜ、とレポートされており
ハイオクガソリンは、高高度飛行のための軍用ではなく
高出力を求めるレース用として開発されたものなのが、うかがえます。
(どちらも高圧縮時に自然発火しない耐久性が求められる)

いずれにせよ、これによってアメリカが
ガソリン精製技術で世界をリードし、第二次大戦で
世界の空を制圧してしまう要因の一つとなるわけです。
最終的に、ハイオクガソリンが十分に精製できなかったドイツは、
高高度用の機体には、ロケットかジェットエンジンの登場を待つ事になります。
日本は、…まあ、ほら、空気を、読むと、いうか、…………忘れましょう。

さらにドゥーリトルがトンプソン トロフィーで優勝した翌年、
1933年にロサンジェルスでナショナル エア レースが開催された時には、
当時ドイツで映画スターになっちゃってた第一次大戦のエースパイロット、
エルンスト・ウーデットが招待されてました。

後にナチス政権下で航空省の技術部門の局長に就任、
ドイツ空軍の再建を支える事になる彼ですが、
このころはまだ映画パイロットでメシを食っており(国民的人気を誇ったらしい)、
映画撮影のため渡米、ハリウッドに滞在していたところを
呼び出されたみたいですね。

この時行なわれた急降下爆撃の展示飛行に彼はいたく感銘、
帰国後にドイツ空軍の再建に関わるようになると、
急降下爆撃に強いこだわりを見せるようになります。
ここからドイツ空軍がJu-87スツーカなどを抱えた戦術空軍となって行くわけです。


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