■空飛ぶ空母
さて、第一次大戦から第二次大戦に至るアメリカの空の技術開発の中で、
極めて特異な地位を占めていたのが飛行船でした。
写真はそんな海軍の飛行船、USSアクロン号の模型ですが、
これは、航空機を収納できる航空母艦飛行船なのです。
(飛行船でも名前はUnited
states Air
Ship/USASにはならず、USSとなっている。
ついでにアクロンは市の名前だから巡洋艦級の命名と同じ基準)
1931年に就航した(第二次大戦開戦のわずか8年前)この空母飛行船は、
全長231mという巨大な船体で、その中央前部、
上の写真でNAVYの文字が見えてる辺りの気嚢内部に、
航空機格納庫が確保されており、4機の偵察機と1機の予備機を搭載してました。
(予備機については分解しての搭載だった可能性が高い)
その主任務は洋上偵察だったとされています。
長時間滞空できて、飛行機を積んでる、となると
アメリカ沿岸の対潜水艦警戒任務にでも使うつもりだったんでしょうかね。
ついでに、偵察用とはいえ搭載されていた機体は戦闘機なので、
最低限の攻撃力は持っていた事になります。
とにかく極めて野心的、という感じですが
悲しいかな飛行船は洋上の悪天候に弱く、
1933年3月にニュージャージー州沖を飛行中に嵐に遭遇して墜落します。
66名の乗組員(飛行船の乗員としては極めて多い)のうち、
生存者は2名のみ、就航からわずか2年の悲劇でした。
その後1933年に次の航空母艦飛行船USSメイコンが就航するのですが、
これも2年後、1935年の12月にカリフォルニア沖の嵐で墜落します。
ちなみにこの時の生存者もまた2名のみ。
2隻の空母飛行船が就航2年で2名のみの生存者を残して
2連続して墜落する、という不気味な結果となります。
これにて海軍は空母飛行船の運用をあきらめるのです。
が、実はそれよりも前に、既に陸軍が飛行船事故を起こして
多くの犠牲者を出していましたから、
悪天候時における飛行船運用の危険性は知られていたはずです。
(この陸軍の飛行船事故を非難した結果、アメリカ空軍を戦略爆撃空軍とした
始祖ミッチェルは軍法会議にかけられて陸軍を去る)
よって、ここら辺り、海軍上層部の無知による事実上の殺人じゃないか、
という気がしますが、どうもどの国、どの時代でも軍人さんという職業は、
多少なりとも気が狂ってる方が出世しやすいのか、という感じが常にしますねえ…。
さて、そんな空母飛行船、出撃はともかく帰還はどうするの、というと、
こんな感じに機体の上、主翼上に固定フックをつけ、
これを飛行船下部に出ている回収用クレーンに引っ掛けてぶら下がって停まる、
そしてそのまま持ち上げて格納庫に入れる、という豪快なものでした。
そんな運用を前提に作られたのが、飛行船空母専用機、
このカーチスF9C スパローホーク戦闘機でした。
偵察が主任務とはいえ、戦闘機の名の通り、7.62mm×2門の武装があります。
展示の機体はC-2とされてましたから、試作2号機ですね。
全部で10機も造られてない、といわれてますから、
当然、これが唯一の現存機となってます。
ついでに、ちょっと見づらいですが、胴体横の円型マークの中には、
空中ブランコやってるお兄さんとお姉さんが描かれてます。
おそらく、この空中収容装置をイメージしたんだと思いますが…。
ちなみに、こういった他の飛行体から発進する機体を、
アメリカでは寄生機(Parasite
aircraft)と呼んでますね。
でもって、これでアメリカ海軍は寄生機に懲りたのでしょうが、
何を考えたか戦後、似たようなアイデアを空軍が復活させました。
彼らは長距離戦略爆撃機の護衛戦闘機に悩んだ結果、
一部で有名な(笑)、XF-85ゴブリンジェット戦闘機を開発するわけです。
こちらは戦略爆撃機の胴体内からの運用でしたが。
こちらは陸軍の戦闘機、ボーイングP-26A ピーシューター(Pea
shooter)。
ピーシューターは、そのまま直訳して可、すなわち豆鉄砲のこと。
大戦間の1932年に初飛行した、アメリカ軍初の全金属、単翼戦闘機となります。
ちなみに展示の機体はグァテマラ空軍が使用、戦後の1954年まで現役で、
同空軍から1957年にスミソニアンに寄贈されたものだとか。
これ、キャノピー(天蓋)なし、足は固定ですから、
それが朝鮮戦争時代まで現役とは、ちょっと感動します(笑)。
よって、この塗装は、グアテマラ空軍のものみたいですね。
ちなみに、これも貴重な機体で、現存機は2機のみ、
この機体とカリフォルニアのチノにあるプレーンズ・オブ・フェイムのものだけです。
よって以前に見た空軍博物館の機体は、実はレプリカだったりします。
ヴェルヴィル スペリー M-1 メッセンジャー。
これも世界で唯一の現存機だそうな。
これまた聞いたこともないメーカーの聞いたこともない機体ですが、
1921年に初飛行した連絡用機。
以前に説明したように、とにかく連絡、偵察といった用途の機体が好きな
アメリカ陸軍が、自ら設計し、スペリー社に生産させた連絡機だそうな。
当時はまだアメリカは自動車社会ではなく、フリーウェイもなければ、
信頼性の面でも長距離移動ではアテにならなかった車より、飛行機がいい、
という事で、とにかく安くて手軽な機体として設計されたものだとか。
全体的にそこはかとなく漂う安っぽさは、コストダウンによるものと、
とにかく狭い場所でも離着陸できるように、という軽量化の結果らしいです。
デモ飛行では、あのアメリカ国会議事堂前、噴水広場の場所に着陸してみせたとか。
事実だとすると、着陸後、20〜30mで停止できた事になりますが…。
さらに、極めて安価だという事もあり、1922〜25年ごろ、
12機前後が、無線操縦の機体に改造され
爆弾を搭載して目標に突っ込むと言う、Aerial
torpedo、
いわゆる飛行爆弾に改造されています。
ただし、実際にどの程度まで開発が進んだのかは、よくわからず。
ちなみにアメリカ陸軍は、第一次大戦中から無人の飛行爆弾が好きでして(笑)、
空軍博物館の時に紹介した、バグと呼ばれる機体を当時から使ってました。
あれは単純に敵方向に飛ばした後は、燃料切れで落ちるのを待つだけ、
というだけだったのに対し、このメッセンジャーからは、
誘導、という要素が加わったわけです。
1920年代半ばによくやるなあ、という感じでしょうか。
よって現代の多くの無人軍用機のご先祖様と言えるかもしれません。
ついでに、1924年には、世界で初めて
飛行船への着艦、離脱実験に成功してるそうで、
先に見たカーチスF9Cの空中フックは、この時開発されたものが、
元になっているようですね。
こんな感じに小さいながらも、いろいろな歴史を持つ機体なのでした。
何とも独特な形状の、ローニン(Loening)0A-1A“サンフランシスコ号”。
1926年12月〜27年5月にかけて行なわれた、
中南米横断親善飛行に使われた機体だそうで、
5機が製造され、例によって、それぞれに都市の名前が付いてました。
展示の機体はサンフランシスコ号だそうな。
当時の南米にはまともな空港がほとんど無かったこともあり、
このような水上機での飛行となったのだとか。
ちなみに記憶力の良い方は、あれ、と思ったかもしれませんが、
1927年5月、という飛行終了の日付は、あのリンドバーグの
ニューヨーク〜パリ間単独飛行成功と同じ月です。
(繰り返すが、初の大西洋横断ではない)
この中南米横断成功も、かなり話題になったらしいのですが、
その3週間後に、リンドバーグの飛行が成功、
皆がそっちに注目して、あっさり忘れ去られてしまったそうな…。
はい、という感じで、今回の本編はここまで。
この第二次大戦終了までの機体では、レーサー機、アクロバット機、
そして旅客機をまだ紹介してませんが、それらはまた後で。
次回はレーサー機とビックリドッキリメカシリーズを片付ける予定です。
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