■次はドイツだ

さて、前回は米英連合国軍機の紹介でしたから、
当然、今回は日独枢軸国側の紹介でございます。

まずはドイツから行ってみましょうか。
ここのドイツ機コレクションは、
世界中でここにしかない機体の集大成となってますぜ。



まずはドイツの断末魔一号、
ドルニエ Do335 プファイルのA型0番台(試作量産型)。
すなわちDo335A-0です。
これが世界で唯一の現存機となります。

この巨体ですが一人乗り、しかも基本は戦闘機であり、
さらには偵察機、あるいは戦闘爆撃機としての運用も考えられていたようです。

戦争の推移が怪しくなって来た大戦後半、ドイツは怪しげな機体を大量に試作、
このため現代の一部の人たちから(笑)熱狂的な人気をえております。
そんな機体の一つがこのDo335で、これはよく見ると前と後ろにエンジンが付いており、
それぞれがプロペラを駆動しているわけです。
もっとも、これはまだドイツに余裕があった時期の機体で、
これ以降、さらにスゴイのがいろいろ出てくるんですが…

実際、ドルニエ社はこういったエンジン配置の機体の開発は、
第二次大戦前から始めていたようです。
なので1943年10月、まだドイツはなんとかなるかもしれない、
といった時期に初飛行までたどり着いてます。
テスト結果は良好で、時速760q出たとされますが、
これがアメリカ軍のテストデータなのか、ドイツ側の資料に基づくのかはわかりません。
ドイツ側のものだとすると、例によってそのデータは
メーカーの自己申告で、やや怪しい数字という事になりますが(笑)…。

が、とりあえずその成績に納得したドイツ空軍からの受注には成功、
量産準備に入るのですが、工場が爆撃で破壊され、
結局、終戦までまとまった数が揃いませんでした。
ただし、もし工場が無事でも、エンジンを2つも使用するこの機体が、
1944年以降、生産されたかは、微妙でしょう。

よく指摘されるようにドイツの戦闘機生産数のピークは
終戦間際の1944年なんですが、あれは爆撃機や輸送機といった
多くのエンジンや資材を消費する機体の生産を止めて、
それらの余力を全部、戦闘機の生産に回した結果です。

別に魔法でもなんでもなく、連合軍の戦略爆撃により、
ドイツ工業生産性が落ちている中での一工夫に過ぎません。
そんな中で、こんだけデカクて資材を食う機体は、
よほどの実績を示さないと量産されないでしょう。
Me262量産のメドも既に立ってましたしね。




理屈の上では、双発機はより大きなエンジンパワーが使えて単発機より有利です。
ただし一般的な双発戦闘機のように、主翼にエンジンを二つ乗っけてしまうと、
空気抵抗が増えた上に主翼上に重いエンジンがあるため、運動性も低下、
この結果、戦闘機には向かなくなります。
その対策としてケツにもう一基のエンジンを積んで双発にしまったのがこの機体で、
前後ともにDB603エンジンを搭載してます。

ついでに垂直尾翼もちょっと変わってまして、
少し小さめのものが胴体の上下に分かれて付いてます。
これは空力的な問題ではなく、おそらく離着陸で機首を上げたとき、
後部のプロペラが地面を叩かないようにするためのものだと思います。
この構造なら最悪、地面に尾翼が接触しても、プロペラは無事ですから。

展示の機体は終戦直前の1945年4月に、ドルニエ工場を占拠した
アメリカ陸軍によって接収されたものだとか。
その後、なぜか海軍がこの機体を受領、1945年から48年まで、
何度かテストを続けたようなので、アメリカ側もかなり興味を持っていたようです。
最終的に1961年にスミソニアンに寄贈され、
例の1976年に向けての第一期レストア組に選ばれます。
が、その後、なぜか機体はドイツに送られ、ドルニエ社自らがレストアし、
しかも完成後はミュンヘンのドイツ博物館に、1991年まで展示されていたそうな。

その後、スミソニアンに返還されたとそうですが、ここが開館するまでの
12年間、倉庫で眠ってたんでしょうかね…。



お次はドイツ断末魔二号、ジェット偵察&爆撃機アラドAr234ブリッツのB型。
これも世界中で現存するのは、この機体だけの貴重なもの。

ジェットエンジン双発の大型機ですが、一人乗りの偵察&爆撃機です。
ちなみに、どっから乗るんだという感じのコクピットですが、
天井部が横方向に開いて、そこから乗り込む構造になってます。

この機体、世界初のジェット爆撃機とされることも多いですが、
それは微妙で、ほぼ同時に開発されていたMe262にも爆撃型があり、
こちらの実戦投入の方がわずかに早かったようにも見えます。

とりえあず、本来は高速偵察機として開発されたもので、
少なくとも世界初のジェット偵察機、というのは間違いありません。
ただし、高速を狙ったジェット機でしたが、最大速度で730q/h前後、
その上、爆弾は機外にぶら下げ式のため、大きな空気抵抗となったはずで、
爆撃機としてはおそらく700q/h出てなかったと思われます。

当時のレシプロ機の最大速度が700q/hに近づいていたことを考えると、
高速を利用しての爆撃が出来たかは、微妙な感じもしますね。
ただし、連合国側も撃墜に手こずったのは事実のようで、
例のアメリカ最初のジェット戦闘機、P-80シューティングスターが
まだ量産試作段階なのに大戦末期にイタリアに呼ばれたのは、
このAr234対策だった、という話もありにけり。

展示の機体はKG76所属のもので、終戦後、ノルウェーでイギリス軍が押収、
それをアメリカに引き渡してくれたものだとか。
これも1946年から49年にかけて、何度かテストされてるので、
やはりアメリカ軍は相応の興味を持っていたようです。

ちなみに、ウドヴァー・ハジー レストア組としては、もっとも早くから
レストアが開始されていた機体というか、既に1989年に完成していたようで、
当時は展示場所もありませんから、これまた倉庫に置いてあったのかなあ…。

ここら辺り、どうも1990年ごろに最初の別館建設が予定されていたのに、
予算不足で2003年までかかってしまったのか?という印象ですね。


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