■アメリカもいろいろだ
お次はまたアメリカに戻り、
海軍の機体、ヴォート・シコルスキー OS2U キングフィッシャー。
これは3型、OS2U-3だそうな。
ちなみにキングフィッシャーは漁師の王様ではなく、カワセミのこと。
メーカー名がエラク長くなってますが、F4Uのヴォートと同じ会社の製品です。
ヴォートは創業者のチャンス・M・ボート(Chance
M.
Vought)の死去後、
ユナイテッド航空社の配下に入り、その一部門として、しょっちゅう名前が変わってるので、
とりあえず、気にしないでください(笑)。
海軍機ですが、ごらんのようにフロートがついており、空母に積む機体ではありません。
戦艦や巡洋艦に搭載され、カタパルトから火薬などの力で強制射出され、
帰還時には着水してクレーンで拾い上げてもらう、という機体です。
そんなんで何の役に立つの、というと、これは着弾観測と、
広大な海で敵艦隊を発見するための偵察が主要任務の機体なのでした。
偵察はともかく、着弾観測って何、というのを少しだけ説明しておきましょう。
まず30qとか20kmとかの遠距離で行なわれる
巡洋艦、戦艦の砲撃戦では、艦橋からでも目標が水平線ギリギリの位置にしか見えず、
自分の撃った砲弾が敵の手前に落ちたのか、奥に落ちたのかの判断ができません。
(ちなみに海面上の高さからだとせいぜい5q先までしか見えない)
すると射撃の調整ができず、そうなると未来永劫、弾は当たらないのです。
ライフル射撃で的のどこに弾が当たったかわからないと、
次はどちらにズラして撃てばいいのか、全く見当が付かないのと同じです。
よって、こういった機体を飛ばして、どこに着弾したかを
視界の効く空から見て報告させ、
それによって射撃調整しよう、と考えたわけです。
が、現実には敵もバカじゃありませんから(笑)、
観測しようと目標から数qまで近づいたら、対空砲火でボコボコにされます。
さらに第二次大戦では空母が主力になってしまったため、
護衛機に阻まれて、全く近づけなくなります。
さらにはレーダーの発展で、艦上で水柱と敵艦の位置が確認できるようになり、
もはやこんな種類の機体、意味がなくなってしまうのです。
この結果、役立たずになってしまったこの手の機体ですが、
その後、戦艦の仕事が艦砲射撃、すなわち地上への砲撃となった結果、
とりあえず終戦時まではその搭載が続きます。
水柱が立たない陸上攻撃の着弾位置確認にはレーダーが使えないからです。
ただしリッチなアメリカ海軍では常に護衛空母かエセックス級の
正規空母の護衛がつくため、艦砲射撃の着弾観測は、
通常、それら空母の艦載機が行いました。
この手の水上機は回収が大変で、空母が別に居るなら、
わざわざ使う意味が無かったのです。
実際、このキングフィッシャーが最も多用されたのは、
太平洋上で不時着水した
爆撃機乗組員の救出任務だったと言われてます。
空母艦載機では着水できませんから、救助任務には向かないのです。
ちなみに展示の機体は1942年から
戦艦USS インディアナに搭載されていたもので、
なんども救援任務に投入されていた、との事。
全く持って見た事も聞いたこともない機体(笑)、
海軍航空工場(Naval aircraft
factory)製のN3N。
これも3型だそうで、よってN3N-3という事になります。
愛称はイエロー ペリル(Yellow
Peril)、黄色い危機、という変なもの…。
1936年から導入が始まった海軍のパイロット用練習機で、
ここに展示されてるような水上機タイプと、
普通に車輪をつけた陸上機タイプがあったのだとか。
ちなみに私が知らなかっただけで、990機近く生産された上、
1961年まで現役に留まっていたそうで、
当然、これはアメリカ全軍で最後の複葉機だったそうな。
展示の機体はアナポリスにあった飛行学校で使われていたもので、
これも元は海軍の有志によってレストアされ、
海軍学校博物館(Naval
academy museum)に
展示されていたものだったとのこと。
スチンソン L-5 センチネル。
アメリカ陸軍の連絡機で、アメリカのこの手の機体としては珍しく、
民間機からの転用ではなく、軍専用機だったようです。
(ただし戦前のモデル105 ヴォイジャーの基本設計を流用してる)
ちなみに、アメリカ陸軍はこの手の連絡、偵察に使える多用途機を
やたらめったら開発した軍隊で(笑)、
このL-5だけでなく、L-2、L-4、さらには偵察機に分類されるものの、
似たような機体と言っていいO-49、O-58と
正直、どれだけあるのかすらもよくわかりません(笑)。
しかもほぼ全部が上翼、固定脚、四角っぽい胴体となってますんで、
正直、その識別はかなり面倒です…。
でもって、展示の機体は生産1号機なのですが、
詳しい来歴は不明とされて、説明はオシマイ…って、あーた、なんですか、
このコクピット前から主翼上にある怪しげなステキギミックは(笑)。
これは何の説明も無かったのですが、帰国後に調べてみたところ、
ブロディ(James
H.
Brodie)大尉という人物が、大戦中に特殊地形における
軽連絡機離着陸実験というのをやっており、それに使用されたもののようです。
簡単に書いてしまうと、ジャングルや湿地帯など滑走路が造れない場所、
あるいは輸送艦などの艦上に、
一定距離(正確な距離は不明)を置いて二本の鉄塔を立て、
その間にピンとワイアを張ります。
そこにこのフックで機体をぶら下げ、滑車で滑るようにします。
で、あとはそのまま浮き上がるまで滑走して離陸、
帰ってきたら、ワイアにこのフックを引っ掛けて滑走して着陸、
というしかけのようです。
時速100q以下でも浮いてられる、こういった軽連絡機ならではの
アイデアですが、最終的には採用されず終わってるようですね。
****追記****
掲示板にて、太平洋戦線で輸送艦に搭載して実用化されていた、
という情報をいただきました。
なんとこの装置、実戦投入されていたようです。
こちらもややマイナーな、ライアンPT-22リクルートのA型。
新兵(Recruit)という名前から想像される通りの初等練習機で、
こちらは陸軍が使用してました。
大戦中に導入されたこの機体が、アメリカ全軍を通じて
最初の単葉(主翼が一段)初等練習機だったそうな。
参考までに第二次大戦中にアメリカ空軍はなく、
この陸軍航空軍が戦後に独立して空軍を造る事になります。
でもって大戦中は、とにかく戦略爆撃機の損害が甚大で、
いくらでもパイロットが必要だ、という事になり、
この機体も急遽1000機以上が生産され、
各地の訓練施設で使われる事になりました。
このためB-17やB-24の戦略爆撃機パイロットの手記を読むと、
必ず出てくる機体で、個人的にはなじみ深いものだったりします。
が、元々はオランダがインドネシアで使うため、
フロート付きの水上練習機としてライアンに発注したものだったのだとか。
が、オランダはドイツに蹴散らさた挙句に日本までが戦争を開始、
インドネシアが占領されてしまったため、
急遽車輪をつけて陸軍に売り飛ばしたものだったそうな。
当初のオランダの発注は20機前後だったとされますから、
世の中、何が商売に幸いするかわかりませんね…。
ついでにこの展示の機体は戦争の行方が見えた
1944年には早くも軍から退役、以後民間で複数の所有者が
遊覧飛行やら何やらに使っていたものらしい、との事。
要するに、詳しい来歴は不明です(笑)。
さて、といったところで天井からのぶら下げ展示の軍用機の紹介は終了。
お次は地上展示の機体たちの見学に向いましょう。
これもまずはアメリカ機から。
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