■フェラデルフィアの基礎知識
というわけで、今回からフィラデルフィア編に入ります。
ボストン、ワシントンD.C.に続く三つ目の訪問地です。
今回の訪問は日帰りですが、それなりに興味深い街であり、
ワシントンD.C.とは明らかに異なる文化圏に属するため、
最初に少し説明をしておきたいと思います。
とりあえずフィラデルフィアはアメリカの独立宣言が行なわれた場所であり、
その1776年7月4日が、アメリカの独立記念日とされるわけです。
よって、アメリカでは古都といっていい街で、
そういった歴史的な名所が多数ある観光都市になってます。
ただし、今回の訪問の大半は、
デラウェア川を挟んでフィラデルフィアの対岸にある
カムデン市の方になってしまうのですが(笑)…。
理由は次回にて。
まずはフィラデルフィアの場所から。
ワシントンD.C.から北東に200q、
ニューヨークからだと南西に160qに位置する大都市で、
市街地は海から少しデラウェア川を上った場所にあります。
ボストンとワシントンD.C.を結ぶ、アメリカの心臓部にある都市の一つです。
フィラデルフィアは、独立戦争前からの都市で貿易港ですから、
おそらく木造船の最大の敵、フナクイムシの被害を抑えるため、
その生息が不可能な淡水地区に街を造ったのでしょう。
この辺りの事情は、ワシントンD.C.の南東で川沿いの港湾となっていた
アレクサンドリア市と同じだと思います。
とりあえずフィラデルフィアの2013年における人口は約154万人、
すなわち9つしかないアメリカの100万都市の一つで、
ニューヨーク、ロサンジェルス、シカゴに次ぐアメリカ4番目の都市です。
余談ながら2014年現在、アメリカの半分以下の人口しかない
日本には11の100万都市があり、北九州、千葉という
100万都市一歩手前の95万人超えの市も二つありにけり。
日本の人口が密集しすぎなのか、
アメリカが過疎過ぎるのか、何ともいえないところですが…。
ついでにアメリカの場合、100万都市といっても、
ロサンジェルスのように中心部に大きな繁華街が存在しない、
広大な田舎町みたいな100万都市もあるので、またややこしいのですが。
で、21世紀の日本でフィラデルフィアと聞いて何を思い出す?
といわれても、さあ、なんでしょう、というのが普通でしょう。
独立宣言の街だっけ?程度に知っていれば大したものだと言えるのです。
ところが19世紀から20世紀初頭にかけては違いました。
この街はアメリカ最大の工業都市であり、
同時にニューヨークと並ぶアメリカ最大の都市だったのです。
現在ではニューヨーク、ロサンジェルス、そしてシカゴあたりが
アメリカを代表する大都市ですが、
アメリカ独立後から1920年代までなら、
間違いなくニューヨークとフィラデルフィアの二つがそれでした。
商業と貿易の街ニューヨーク、工業と輸出の街フィラデルフィアが、
アメリカの二大産業都市だったのです。
アレクサンドリアの朝の散歩でもちょっと紹介した
明治の岩倉使節団の記録、米欧回覧実記によると、
1871年初夏にこの地を訪れた彼らは2泊3日しか滞在しなかったものの、
多くの工場を見学し、その繁栄ぶりに驚いています。
それによればフィラデルフィアはアメリカの製造業の最大の拠点であり、
極めて清潔な街並みが印象的だとのこと。
ついでに1870年の段階ですでに67万4千人もの人口を抱えていたそうな。
とりあえずフィラデルフィアはアメリカが世界最大の工業国だった時代、
その中心地であり、その衰退と共に、
1970年代から急速に衰退を向かえることになった街でした。
ついでに言えば、20世紀を代表する石油化学や自動車、
そして航空機産業がなかったのも、その衰退に拍車を掛けました。
そんな衰退のピークにあったと言っていい
1986年、司馬遼太郎さんがこの街を訪れており、
打ち捨てられて廃墟となっていた巨大な工場群にショックを受け、
都市の使い捨てというのがあるのか、と驚いています。
が、それから30年近く経ったフィラデルフィアは
見事に復活を遂げてしまい、現在は人口も増加に転じており、
極めて活気のある街になってしまいました。
歴史を見る、というのは実に難しいのだなあ、
という感慨とともに、そこら辺りも少し見て行きたいと思います。
国家や都市は必ずしも一直線に衰退しない、復活してしまう事もあるのだ、
という点で1970年代から1990年代までのアメリカは、
非常に興味深い動きをしていますね。
デラウェア川からフィラデルフィア市中心部を見る…
つまり対岸の街、カムデン市から見てるわけですが(笑)。
ちなみにこの街は、日本の造船業界がその仕事を奪うまで、
世界最大級の造船の街でもありました。
スミソニアンのアメリカ史博物館の展示で見た、
第一次大戦末期に造られた、当時おそらく世界最大の造船所だった、
ホグ島(Hog
Island)造船所があったのもフィラデルフィアです。
そして20世紀初期からその最盛期に入っていたフィラデルフィアは
意外な形で日本とも関係を持っています。
日露戦争の時に連合艦隊に在籍していた
二等巡洋艦 笠置が造られたのはこの街の造船所なのです。
ちょっと脱線しておきますよ。
そんなよう知らん巡洋艦の一つや二つがどうした、と思うかもしれませんが、
この笠置の発注を受けた。フィラデルフィアの
クランプ造船所(William
Cramp & Sons Shipbuilding
Company)
はその直後から、なんとも不思議な動きを見せるのです。
まず、笠置が1896年末〜1897年初頭に発注されたまでは問題なし。
1年足らず後の1898年1月には、無事に進水まで行なわれ、
その後にイギリスに回航され、そこで兵装が行なわれました。
が、その直後、クランプ造船所はロシアからも軍艦の受注を受ける事になります。
これが後の日露戦争で太平洋艦隊に配備される事になる
戦艦レトヴィザン、そして巡洋艦のヴァリヤーグでした。
ちなみにヴァリヤーグは開戦直後の仁川沖海戦で損傷、自沈した艦です。
(後に引き上げられ、日本海軍に編入される)
両艦の起工は1898年末とされますから、
さすがに日露両国の軍艦が同じ造船所で並ぶ、という事はなかったのですが、
その起工後の1899年7月、日本人技術者が一人、
このクランプ造船所で採用されます。
桝本卯平(ますもと うへい)という東大で造船を学んだ26歳
(誕生日がわからんので27歳の可能性アリ)の若者でした。
そして彼はまるで狙いすましたかのように、
入社後は巡洋艦ヴァリヤーグの製図班に配属され、
その後に戦艦レトヴィザンの製造現場に回っています。
…偶然ではないでしょう(笑)。
司馬遼太郎さんも、この点を知っていて、
先に見たアメリカ素描で触れていますが、
彼は桝本はスパイではないだろう、と述べています。
が、スパイ、というレベルではないかもしれませんが、
確実に彼はロシア艦の情報を集めていたはずです。
そもそも、クランプ造船所に桝本を紹介したのは、
後に日露戦争講和に日本の全権を背負って臨むことになる
当時の駐米公使、小村寿太郎でした。
(桝本は小村の地元出身で、その書生として東大に通っていた人物。
後に彼は小村寿太郎研究の基本資料となる
“小村寿太郎 自然の人”を執筆している)
そして小村が居た1899年当時のワシントンD.C.には、
アメリカ史博物館のスペイン戦争のところで紹介した、
後の連合艦隊作戦参謀、秋山真之が居たのです。
小村と秋山は親しく行き来していたとされますから、
両者の間に、何かのやりとりがあったと考えるのが自然でしょう。
実際、秋山は一度直接、クランプ造船所に居た桝本を訪れています。
小村の紹介とはいえ、民間人に過ぎない桝本を、
軍人である秋山が訪問する理由は、普通無いはずです。
おそらく、ここら辺りの根回しをしたのは秋山でしょう。
海軍の秋山なら、仕事を発注した事のあるクランプ造船所には
それなりに顔が利いたはずですし。
まあ、そういった日露戦争前哨戦みたいな情報戦が行なわれたのが
このフィラデルフィアの街なのです。
さらについでに脱線すると、
フィラデルフィアでその筋の人(笑)に知られたものとして、
フィラデルフィア実験(Philladelfia
experiment)“神話”があります。
なんじゃそりゃ、というと1943年にアメリカ海軍が
フィラデルフィア海軍工廠で、レーダー妨害の実験装置を駆逐艦に搭載、
そのスイッチを入れたところ、駆逐艦は忽然と消えてしまったというもの。
さらに、その駆逐艦は250q以上はなれたノーフォーク港に出現、
艦内の乗組員の多くが大ヤケドを負ったり、体が切断されてたりした、とされます。
これは1960年代ごろからアメリカで流布されたお話で、
1984年には映画化されたりと、それなりに有名なものです。
が、この点については今回の旅で複雑な思い出の地となった(笑)、
ワシントンD.C.海軍工廠にあるアメリカ海軍歴史センターが
詳細に調べて実験そのものの存在を否定するレポートを出してますので、
興味のある人はPhilladelfia
experiment で検索してみてください。
日本語、英語含めて、現在世の中に出回っている
フィラデルフィア実験神話の解説の9割は
この海軍レポートが元ネタなので、オリジナルで読んでおくのが、
一番わかりやすいと思いますし。
という感じで、いろいろ脱線してしまいましたが、
そろそろ旅行記に戻りましょうか。
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