■欲しいものは奪い取れ
お次は1898年に始まったスペイン・アメリカ戦争の展示。
実は先に見たメキシカン戦争と、この戦争の間には
南北戦争があったのですが、
そちらは別展示なので、次回の紹介とします。
ついでに、この間に大きく2回、アメリカ国内で対アメリカン・インディアン戦が
行なわれてるのですが、こちらの展示も極めて地味だったので、
ここでは紹介を省きます。
スペイン・アメリカ戦争は疑う余地無くアメリカの帝国主義、
植民地確保のための戦争となったのですが、表面上はスペインの植民地、
キューバの独立を助けた、と言う大義名分が成立するため、
結構立派な展示となっております(笑)。
とりあえず1890年代までに、中南米のスペイン植民地が、
ほとんどが独立してしまったのに対し、
キューバとプエルトリコは、未だ植民地のままでした。
徐々に独立の気運が高まっていたのですが、
スペインが一時認めたはずのキューバの地位向上を
拒んでしまったことから、1895年ごろから、
ようやく本格的な独立運動が始まる事になるのです。
そして、この独立運動に、当時急速に発展しつつあった
アメリカのマスコミが目を向けます。
報道機関にとって最も重要なのは、言うまでも無く、
正義でも真実でもなく発行部数であり(笑)、
この点、スペインの圧政とそれに苦しむキューバ市民という構図は
アメリカ市民の良心と優越感をいたく刺激する格好の材料でした。
例えば、当時の大衆新聞「ニューヨーク ジャーナル」は、
わずか数千部の発行だったのが、
無実の罪でスペインに投獄されたとされる、一人のキューバ人少女の
救済キャンペーンを大々的に展開して大衆の同情をあおり、部数を躍進させます。
さらにスペイン・アメリカ戦争のきっかけとなるメイン号の爆発事件の報道で
ついに発行部数100万部を突破、後に戦争の行方を決定付けた
マニラ湾海戦の速報では160万部を売り上げたとされますから、
まさに戦争バンザイで、笑いが止まらなかったでしょう。
こういったマスコミの扇動的な報道が、アメリカ参戦のきっかけになるのが、
この戦争の大きな特徴の一つです。
当時のクリーブランド大統領は最初から中立を宣言してましたし、
議会も積極的な関与には及び腰でしたから、
もし、発行部数増加を目論むマスコミの扇動が無ければ、
果たしてキューバの独立戦争にアメリカが関わったかは微妙だったのです。
そして1897年にマッキンリーが大統領になると、
国内世論を見た彼はより積極的な関与を打ち出します。
ただしスペインとキューバ独立政府の話し合いを提案した程度で、
まだ自らスペインと戦争する気はありませんでした。
が、その間もマスコミの報道はどんどん過激になり、
反スペインキャンペーンを繰り広げます。
これは先に書いたように、特に思想的、政治的な裏づけがあったからではなく、
単に新聞の発行部数がそれで増えたからです(笑)。
そして1898年1月に首都ハバナで民衆の暴動が起きます。
これをアメリカのマスコミが大々的に報道したため、
アメリカ政府も無視できなくなり、自国民の保護、
そしてハバナから脱出支援のため、
戦艦USSメインを派遣することを決定するのです。
これが、後のメイン号爆破事件へと繋がる事になります。
先にアーリントンで見たそのUSSメイン号のマスト(中央奥)。
とりあえずハバナ港に入稿したUSSメインでしたが、そもそもアメリカ人には
なんの関係もない暴動だったため、アメリカ市民の退去も保護も必要は無く、
何をするでもなく、2週間近く停泊を続けていました。
が、2月15日の夜、突然、謎の大爆発を起こしてこれが沈没してしまい、
354名の乗員のうち266名が死亡すると言う事件が発生します。
(ちなみに数人の日本人のコックと従者が乗っており、彼らの多くも死亡した)
これをマスコミはスペインの陰謀と決めつけ、アメリカの参戦を煽ります。
さらにアメリカ海軍の調査で機雷への接触が原因とされたため、
スペインによる陰謀説が有力視されてしまうのです。
(ただし機雷説は現在ではあまり支持されず、石炭からの自然発火説が根強い)
これを受けてアメリカの世論も一気に開戦へと傾き、
もはや無視できなくなったマッキンレー大統領も、
スペインに対する軍の行動を支持するよう議会に求めます。
最終的にアメリカ議会が4月25日付けで宣戦布告を行い、
ここにスペイン・アメリカ戦争が正式に始まることになるわけです。
これは本来、キューバの独立運動であり、
アメリカとはほとんど関係が無いはずの戦争でした。
それがほとんどマスコミの力で、これに巻き込まれてしまった、という
非常に注目すべき流れを持つわけです。
ここら辺りを日露戦争前後の日本に当てはめて見ると、
他人事とは思えない部分が出てきて、興味深いものがありますね。
とりあえず、アメリカが積極的に乗り出した戦争ではなかったものの、
これによって独立したキューバは事実上のアメリカの保護国となり、
さらにプエルトリコを自治領としてしまったアメリカに、
帝国主義の味を覚えさせる結果になります。
さらには、例によって(笑)本来全く関係が無かったはずの
フィリピンのスペイン軍までアメリカの太平洋艦隊が攻撃を仕掛け殲滅し、
さらに上陸部隊を送り込んで占領して事実上の自治領にしてしまいました。
(その後、グアム島まで占領)
結局、わずか開戦4ヶ月後の、8月にアメリカの一方的勝利によって
休戦となるのですが、終わってみればアメリカはカリブ海から太平洋まで
大きな支配権を手に入れてしまったのです。
そして同じ1898年にはハワイを強制併合してしまい、
アメリカも帝国主義の流れに乗って行く事になります。
アメリカ海軍の装甲巡洋艦USSブルックリンの模型。
この時代の下ぶくれな艦体が特徴的な装甲巡洋艦で、
マニラ湾海戦と並んで、アメリカの勝利を決定付けた海戦、
サンティアゴ デ キューバ海戦(Battle
of Santiago de
Cuba)の時、
旗艦をつとめた艦です。
ちなみに、他に戦艦が何隻もいたのに、
装甲巡洋艦のこの艦が海戦で旗艦を勤めたのは、
本来の旗艦である戦艦USSニューヨークが陸軍との
作戦会議のため司令官サンプトンごと戦線に居なかったからです。
そのため副指令のシュレーが乗艦していたこのUSSブルックリンが、
そのまま旗艦となってしまったのでした。
この海戦の前段階として、スペイン・アメリカ戦争開戦後、
スペインの派遣艦隊はキューバの
サンティアゴ デ キューバ湾に集結していました。
が、これは何か策があったわけではなく、
戦艦不在で明らかに劣勢の戦力を維持するため、
湾の入り口が狭く、地上からの援護によって安全に
立てこもれるサンティアゴ デ キューバ湾に避難していた、
というのが実態でした。
が、この派遣艦隊を殲滅しないとアメリカとしては
キューバへの輸送艦隊の安全が保証できないと考えたため
(ただし実際はアメリカが思っていたほど強力な艦隊では無かった)
これを殲滅するか、封鎖してしまうかの二択を迫られます。
アメリカ側は、当初、湾内封鎖を試みます。
狭い湾の入り口に輸送艦を沈め、スペイン艦隊の封じ込めを狙うのです。
が、輸送艦の自沈時に、スペイン側艦隊から猛攻撃を受けてしまい、
狙った角度で自沈できず、その封鎖には失敗します。
結局、その後1月近くにらみ合いが続くのですが、
最終的に1896年7月2日、スペイン艦隊が強行脱出を決行し、
これに立ちふさがったアメリカ艦隊と戦ったのが、
サンティアゴ デ キューバ海戦となります。
ちなみにアメリカの戦艦×4、装甲巡洋艦×1、補助巡洋艦×2
に対して、スペインは装甲巡洋艦×4、駆逐艦×2ですから、
その戦力差は明確でした。
そしてその戦果も、スペイン艦隊は壊滅、
対してアメリカ側の損害は戦死者1名に負傷者が100名弱出たものの、
損失艦は0という、一方的といっていい結果に終わります。
これによってスペイン側の制海権は完全に失われ、
キューバに残されたスペイン軍は完全に孤立、降伏へと繋がります。
が、これは本来キューバの独立運動だったはずなんですが、
その休戦交渉はアメリカとスペインだけで行なわれ、
独立したはずのキューバ政府は交渉の席にすら呼ばれませんでした。
以後、後のキューバ革命までアメリカの保護国としての地位に
置かれ続ける事になります。
余談ながら、この海戦の経緯を見ると後の日露戦争における
旅順艦隊戦とよく似た展開なのに気が付きます。
実際、日露戦争時の海軍作戦担当参謀、秋山真之が
この時の海戦に観戦武官として派遣されており、つぶさに調査しています。
その影響は間違いなくあったでしょう。
そういった意味でも、日露戦争と、このスペイン・アメリカ戦争は
どうも妙に似通った部分があり、不思議な感じはしますね。
はい、といった感じで今回の本編はここまで。
次回は、ようやく南北戦争から第二次大戦に向います。
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