■いろんな戦争



さて、その次は、アメリカの細かい戦争コーナー。

まずは例の米英戦争(The war of1812)から。
ただし、アメリカ人の忘れたい戦争No.1ですから(笑)、
展示は極めてあっさりしたものだけ、というか、ほとんどありませんでした。

ちなみに、左上にボロボロの星条旗の写真が見えてますが、これが例の
国歌の部屋に飾ってあったもので、撮影禁止のカタキをここで取れました(笑)。
ちなみに実物は先にも書いたようにとても巨大な旗です。

この戦争はいろんな説明がなされ、
実際、そこそこ複雑な背景もあるんですが、それでも大筋としては、

1.ヨーロッパじゃナポレオンが大暴れで、大変らしいぜ。

2.だからイギリスはとても忙しいはずだぜ。

3.…チャンス?

というシンプルにアメリカンな思考の流れの上にあり(笑)、
彼らはこのスキにカナダをイギリスから分捕るつもりでした。
そして簡単に蹴散らされる事になるのです…。

最終的にはワシントンD.C.にまで攻め込まれて一時占領を許す事になり、
その後は、もともと実力不足のアメリカ軍とヨーロッパでナポレオン対策に忙しい
イギリス軍の間でダラダラと妙な戦争が続く事になります。
ただし、この間にアメリカン・インディアンの多くの部族が
代理戦争のような形でこの戦争に巻き込まれて、
多大な犠牲を払わされたりしてますが…。

が、最終的に1814年、パリが陥落してナポレオンが失脚すると、
イギリスが本気で攻めてくると恐れたアメリカと、
さっさとヨーロッパの秩序回復に集中したいイギリスの利害が一致、
講和に持ち込ちこまれ、形の上では引き分けとなります。

が、イギリス側は本土も植民地もほとんど被害が無いのに、
アメリカ本土は首都ワシントンD.C.を始め、各地で破壊を受けてますから、
実害はかなりあったわけで、アメリカ側の実質的敗北でしょうね。

ちなみに、この講和成立が1814年の12月、
そしてナポレオンがエルバ島を脱出して、
ちゃっかりパリに帰ってきちゃったのが3月末。
つまりわずか3ヵ月後のことでした。

となると、もう少しアメリカとイギリスが戦争を引っ張っていた場合、
ヨーロッパは片付いた、次はアメリカだと
イギリスがそちらに主力部隊を送り出してしまう可能性もあったはず。

その状況でナポレオンがヨーロッパで電撃復活を果たしていたら、
あっさりワーテルローの戦いで終わらなかった
可能性もあったような気がしなくもなく…。
まあ、それほど高い可能性ではないですけどね。

以下、完全に余談。
この戦争が始まった1812年は
ナポレオンがロシアに攻め込んだ年、
つまり彼の凋落の始まりの年です。
そして実は日本が戦争を始めた1941年は
ドイツがソ連に攻め込んでその崩壊を開始させる年でした。

…教訓。
どっかの国の軍隊がモスクワ目指してる年に戦争始めるのはやめとけ。



お次は対メキシコ戦第一ラウンド、
1835年のテキサス共和国独立宣言によって引き起こされた
テキサス独立戦争の展示です。

上で見たように、カナダ強奪に失敗したアメリカは、
北への進出はあきらめます。
が、イギリスには勝てないけど、メキシコになら勝てるんじゃないの?
と甘い考えで、今度は南の領土拡大に向ったのが、この一連の戦争でした。

ちなみに、この時代のアメリカの領土拡大欲の
タチの悪さは気味が悪いほどで、
あらゆる角度から見て誉められる要素がありませぬ(笑)。

この戦争は、メキシコの領地だったテキサスに
アメリカ人の移民が次々に入植し、
もはや俺たちの方が多数派なんだから、
と一方的にメキシコから独立を宣言してしまったのが発端です。

が、1820年代からアメリカはメキシコにテキサスを売るように
何度か要請しては断られており、
これを虎視眈々と狙っている状況だったのに注意が要ります。

となると当然、この行動のバックにはアメリカがついてるわけで、
実際、この戦争で独立を勝ち取ったテキサス共和国は
わずか数年存在しただけで、
アメリカ合衆国の州の一つになってしまいましたから、
これはアメリカによる事実上の領土強奪です。
(ちなみに後のテキサス州よりテキサス共和国は広く、
現在の複数の州にまたがる広大な地区だった)

例えば、メキシコからの移民で溢れる21世紀のカリフォルニア州議会が、
もはやヒスパニックの方が主流だからと独立宣言してメキシコに保護を求めたら、
どんな騒ぎになるか想像して見てください(笑)。
ムチャクチャナ事をやってるんですよ、この時期のアメリカは。

当然、メキシコにしてみれば、バカを言うなという話ですから、
1835年3月に戦争が始まり、1836年4月まで約1年続きます。
一応、これはメキシコ軍とテキサス共和国軍の戦いですが、
テキサス側の指揮官は当時のアンドリュー・ジャクソン大統領の古い友人、
元アメリカ軍人で、さらに元テネシー州知事の
ヒューストン(Samuel Houston/上の写真の人物)であり、
その軍隊内にもアメリカからの“義勇兵”が多数いましたから、
これは実質的にアメリカ軍みたいなものです。

ちなみにこの時もアメリカ軍、すなわちテキサス共和国側は
楽勝だぜとメキシコをナメてたフシがあります(笑)。
(ジャクソン大統領は英米戦争の時の将軍の一人だ)
が、1821年まで10年近く独立戦争を戦っていて実戦慣れしてる上に、
最強の軍人大統領サンタ・アナ(Santa Anna)に率いられた
メキシコ軍は予想外に強敵で、テキサス側はほとんど負け戦ばかりでした。
(といってもせいぜい500〜2000人前後の兵による戦闘ばかりだが)
この戦争の中、1936年2月に戦われたのが有名なアラモ砦の戦いで、
この戦いでテキサス共和国の守備隊は全滅、
アライグマ帽子の変なヤツ、デイビー・クロケットが戦死したのもこの時でした。

そんな感じで結局、最後まで主力決戦では勝つことができなかったのですが、
ヒューストン率いるテキサス共和国軍は、
1836年4月21日、メキシコ軍主力部隊が休息中の拠点を発見、
これの急襲に成功して、奇跡的に形勢を逆転してしまいます。

これがサン ジャセント川の戦い(Battle of San Jacinto)で
テキサス共和国による桶狭間の戦い、といった感じのわずか20分前後の戦闘により、
メキシコ軍の最高指揮官で、大統領でもあったサンタ・アナが捕虜となり
(実際は数日間逃げ回ってから捕まった)
メキシコは屈辱的な形でテキサスの独立を認める事になるのです。
(ちなみに上の写真の左に出てるのがアラモ砦、右がサン ジャセント川の戦い)

この不意討ちは軍事的には見事なのですが、
(ただし感覚的には戦国時代の田舎大名の小競り合いに近い)
単純に運が良かったから、という面があり、
この戦争にテキサス側が勝てたのはたまたま、という部分が少なくありません。

当然、メキシコには恨みが、アメリカには領土強奪の成功体験が残り、
これが後々にまで尾を引くことになります。



で、これに味をしめたアメリカは、
さらなるメキシコからの領土割譲を狙いはじめました。
まず、戦争終結から9年後、1845年にポークが大統領に就任すると、
テキサス共和国を合衆国に併合してしまいます。

が、ポークは、さらに太平洋岸に至るまでの地域、
現在のアメリカ西部エリア全体にあたる
カリフォルニア州からネヴァタ州、
そしてコロラド州からニューメキシコ州周辺まで欲しいなと考えます。
これは当時のメキシコの全領土の1/3近い面積であり、
凄まじい侵略主義というほかありません(笑)…。
普通は考えることすら難しいレベルの話でしょう。

で、この段階、1845年に登場したのが、
いわゆるマニフェスト デスティニー(manifest destiny) 理論で、
日本語にするなら、明示された運命、でしょうか。
これはアメリカが拡大するのは、明示された運命なのだ、という理屈で、
これだけでは意味がわかりませんが、
この言葉の影には、神による明示というニュアンスがあります。
まあ、軽く狂ってますね(笑)。

これは1845年にオサリバン(John L. O’Sullivan)という記者が書いたもので、
彼によれば、この大陸は神によって我々に与えられたものなのだから、
これを我々が支配するのは、明示された運命である、
という、神が出てきちゃ、そりゃ何でもありだわな、
という理論でして、21世紀の日本人から見るとアホかいな、
という理屈だったりします。

ちなみに、いうまでもなくこの“我々”は、
入植した英語圏の白人のみを指します。
インディアンも奴隷もスペイン系白人も、
神に明示された我々の宿命の敵ではない、という感じでしょうか。
…やっぱり、この時期のアメリカは完全に狂ってますね(笑)。
でもって、この理論はアメリカ領土が西海岸のカリフォルニアに到達した後も、
今度はアメリカの自由平等を世界に広げるのは
我々の運命なのだ、的に拡大解釈され、悪用されて行きます。

ちなみに、このマニフェストは、アタマの優れないように見える
日本の政治家の皆さんが連呼する怪しいカタカナ、
マニフェストとは別物ですから注意。

こちらはmanifesto で最後に“o”の字が追加されて、
政党宣言の意味になります。
ちなみに、この政党マニフェスト、イギリスの政党政治を参考に…
みたいな適当な説明をよく見ますが、そんなわけはなく(笑)、
政党マニフェストは、疑う余地無く、マルクス&エンゲルスの
共産党宣言に由来します。
あれの元祖は、共産党なんですよ(笑)。
ようするに党宣言のことで、なんでこんな簡単な言葉を
わざわざカタカナ表記するんでしょうね。

さて、話を戻しますよ。
最初、アメリカはメキシコに上で見た地域を売り渡すよう、
要求したのですが、当然、自国の領土の1/3を
売り渡すバカな国家があるわけもなく、これは拒絶されます。

ちなみに、ポーク大統領は、同時期にキューバの買い取りも
スペインに打診するのですが、これも拒否されてます。

そこで、アメリカはテキサスとメキシコの国境問題にかこつけて
メキシコを軍事的に挑発し始めるのです。
で、これに乗せられたメキシコ軍がテキサス国境で発砲すると、
待ってましたと宣戦布告、南のテキサスの国境の問題だったはずなのに(笑)、
速攻で西のカリフォルニア方面に攻め込んで、これを占領してしまいます。
これがメキシカン戦争(Mexican war)で、1846年の4月から2年近く続くことに。
(アメリカの歴史教科書にはメキシコが先に手を出したので、
戦争になったのだ、と書かれてます。
恐らく事実ですが、挑発したのはアメリカが先なのもまた事実(笑))

ただし今回はアメリカ側の準備も万端で、
カリフォルニア、ニューメキシコ方面で勝利した上、
海からの上陸部隊がユカタン半島を横断してメキシコの首都、
メキシコシティを占領してしまいます。
ただし、この首都占領は直接決定的な要因とはならず、
その後、数ヶ月に渡って戦争は続きますが…。

それでもアメリカの優位は揺るがず、1848年2月、
アメリカが欲しいと思っていたほとんどの土地をメキシコが手放す、という
屈辱的な条約が結ばれ、終戦となります。

よって、この戦争はどこからどう見ても、領土強奪が目的の侵略戦争であり、
これに勝った結果、現在のアメリカの原型が出来上がる事になります。
そういった意味では重要な戦争なのですが、
さすがにこれだけ露骨な侵略戦争を、正義の軍隊アメリカ軍がやりました、
とは紹介のしようが無かったのか、かなり地味な展示となってました(笑)。

とりあえず、写真は戦争中に使われた拳銃などですが、
それで戦争を想像しろと言われてもなあ、という感じです。


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