■アメリカは造るのだ



お次はアメリカの造船業。
第二次世界大戦で、輸送船のリバティーシップどころか
世界最強の能力を持った正規空母、エセックス級までも大量生産しちゃった(笑)
アメリカ造船業界の恐ろしさを身を持って知ってる我々日本人ですが、
その底抜け脱線造船能力は既に第一次大戦の時から始まっていたのよ、という展示。

第一次大戦時、アメリカがフィラデルフィアの海軍工廠のすぐ側に
7つものドックを持つホグ島(Hog Island)造船所を建設、
ここで1918年8月からおそるべきスピードで船舶建造を始めます。
上のポスターは、当時世界最大だったとされるこの造船所で、
1919年5月3日、1時37分からわずか48分の間に5隻の輸送船が次々と進水、
その合計トン数が39125t にもなったよ、というもの。
世界記録とされてますが何の数字で世界記録なのかはよくわかりませぬ(笑)。
時間あたりの進水トン数でしょうかね。

とりあえず、1919年の段階で、すでに船舶の大量生産を可能にしてたわけで、
恐るべしアメリカ、というところでしょうか。

ちなみにホグ島造船所なんて知らん、という人が人類の120%だと思いますが、
ここは戦争が終わると速攻でドックの閉鎖が始まり、
操業開始からわずか3年後の1921年には完全閉鎖されてしまったのでした。
後に空港がその跡地に造られ、現在も利用されています。
その空港の直ぐ東が現在も現役のフィラデルフィア海軍工廠です。



そこで造られていた輸送船の模型。
この型の船は、ホグ アイランダー(Hog islander)の名前で呼ばれていたそうな。
8400t前後の排水量があり、さらに兵員輸送型は後に大型化の改装を受け、
1万2000トンを超える病院船にされたものもあるみたいです。
(トン数はアメリカ単位。この点は今回のオマケで説明します)

これ、2007年にサンフランシスコで見た第二次大戦の時の量産型輸送船、
リバティーシップに似てるな、と思ったら、
やはり基本的な製法や設計はこれを土台にしてるのだとか。
(ただし、リバティーシップはさらに大型で14000トン近くある)

ちなみに造船所が1918年8月に完成、1919年から進水開始、という事は、
1918年に終わった世界大戦には間に合ってないのですが(笑)、
それでも閉鎖される1921年1月までに通常型輸送船(A型)110隻、
兵員輸送船(B型)12隻を建造したとされます。

造船所の実働期間はわずか2年半、
となると年間49隻のペースで建造したわけで、
これは月間4隻ずつ8400tの輸送船を建造していた、という事になります。
日本じゃまだ大正7〜10年のあたり。
やっぱりこんな国と戦争しちゃダメだよなあ…。

ちなみにホグ アイランダーの多くは第二次大戦にも投入され、
半数近くを失いながら、大戦後まで活躍、
第二次大戦終戦後にすべて解体されてしまったようです。




で、こちらが第二次大戦の時のリバティーシップの解説。

なぜかこういったパネル展示ばかりで、ろくに写真もない、
という不思議な展示になってましたが、
大戦中に2700隻(笑)も造られて、アメリカが世界中で戦争をするのを
支え続けた輸送船がリバティーシップです。

パネルの地図はその造船所があった場所で、東海岸から
西海岸まで、あらゆる造船所で造られていたのがわかります。
ピークの1943年には全米18箇所で建造されてたそうな。

で、下の写真は、例の戦時動員された女性工員たちの解説。
前にも述べたように、戦中の工場への女性動員が戦後、
アメリカにおける女性の社会進出に繋がってゆきます。
この真ん中の二人は姉妹で、
左右の男性は“お友達よ”だとか…。
ちなみに1944年サンフランシスコでの撮影。

余談ながら、アメリカ、イギリスではこういった女性工員の動員が
大規模に行なわれ、日本でも小規模ながら実施されています。
が、ドイツだけはほとんどこれをやっていません。
理由は単純明快、ヒットラーが女が工場に来るなんてとんでもない、
女は優秀なドイツ人を生み、育てるものだ、
と判断したからで、最後まで本格的な動員は行なわれませんでした。
(ただし部分的にはなされたとされる説もある。
実際、GMの工場を接収したユモエンジン工場で
働く女性の写真が残ってたりもする。
が、これは占領地区から連行された女性でドイツ人ではないという説明もあり
ドイツ語は全くわからない私には判断がつかない。
とりあえず本格的な動員がされてないのは事実だ)

この結果、不足した工業生産の人員は
政治犯や捕虜、占領地の住民の強制召還、
さらにはユダヤ人の強制収容所から確保される事になるのです。

戦争途中から工業生産全般に責任を持つことになった
シュペーアは何度かドイツ女性の大規模動員をヒットラーに直訴してるのですが、
ことごとく拒否され、代わりに強制収容所のユダヤ人、および捕虜などを
大量に動員し、多くを過労で死なす結果になります。

本来、ナチスとは一定距離を置いていた彼が、
戦後も20年近く禁固刑とされてしまった理由がこれです。
(この点は本人も認めてるが、ユダヤ人の大量虐殺については
知らなかったとしている。ただし、微妙なところだと思う)



お次はここで唯一の空の展示、ドイツのツェッペリン飛行船の模型。

とにかく適当な解説が多い、このコーナー、形式名すら出てないのですが、
1928年10月に大西洋横断した、とされているので、LZ-127でしょう。

ちなみに、LZ-127は1929年には世界一周飛行を行なっており、
当然、これは世界初の偉業でした。
よって、この時の20日と4時間の飛行時間が最初の世界記録でもあり、
例のルタン閣下がヴォイジャーとグローバル フライヤーで
次々と新記録を打ち立てた記録のルーツは、この飛行船なのです。

でもって当時でもほとんど話題にならなかった(涙)ものの、
実はこの飛行が世界初の太平洋無着陸横断でもありました。
この時、LZ-127は日本の霞ヶ浦から、
サンフランシスコまで無着陸横断飛行を行なってます。
(ただしサンフランシスコでは着陸しないで素通りしてしまう)
よって太平洋無着陸横断飛行を最初にやったのは
日本人でもアメリカ人でもない、ドイツ人の運行する飛行船です。

ちなみに、これは有料の世界一周飛行として行なわれ、
当時の価格で一人9000ドル払い、20人の乗客が乗っていたそうな。
参考までに消費者物価指数(CPI)から大雑把な計算をすると、
これは2014年価格でざっと12万3000ドル、1250万円というところ。

世界初ずくめだった事を考えると、以外に安い気もしますね。
まあ、私なんざ一生縁が無い世界ですが…。
さらについでながら、乗務員が43名居たそうで、
これは乗客の倍以上の数、という妙な交通機関になってます。
昔、メキシコ料理屋に2人で入ったら、客は私たちだけ、
対して生演奏のバンドが5人も居て、
演奏のたびに拍手が大変だったのを思い出す…。

ついでながら航空機による太平洋無着陸横断は、
これまたほとんど知られてませんが、
1931年10月4日にパンボン(Pangborn)とハードン(Herndon)の二人が
青森の三沢から、ミス ヴィードー(Miss Veedol)号に乗って
ワシントン州のウェナチー(Wenatchee)まで飛んだのが最初です。

ちなみに、彼らの飛行距離は約5500マイルとされてますから、
リンドバーグのニューヨーク〜パリ間の約3500マイルより
約2000マイル(3200q)も長く飛んだことになります。
飛行時間も実に41時間で、よくそんだけ浮いていたものですねえ…。

ただし本来はより短距離の飛行で済む
太平洋海岸のシアトルに着陸するつもりだったのが、
霧のため海岸部の空港は使えず、
仕方なく内陸部のウェナチーにまで飛ぶことになったのでした。

余談ながら、この飛行、アメリカでは淋代(Sabushiro)浜からウェナチーまでの飛行、
と説明されてることが多く、普通の日本人にとって
淋代(さぶしろ)浜とか言われてもわからん、という感じになっております。
さらに Sabishiro とか綴りの間違いも多く、
アメリカ人が太平洋にいかに無関心か、というのがよくわかったり…。

アメリカ空軍基地があるんだから、三沢のほうがアメリカでも
通りがいい地名だと思うんですけどね。


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