■軍隊だってお役所だ



その先にあったスクリューとプロペラとタイヤ。

なんじゃこりゃ(笑)と思って下の解説を見ると、
左のスクリューはアメリカが戦時に大量生産した輸送船、
リバティーシップのもの、プロペラは小型民間機のムーニー社のもの、
デカいタイヤは1942年にカリフォルニアのダム開発現場で使われていた
ダンプカーのものだとか。

ただし、なんでそれらが選ばれてここに展示されてるのかはさっぱりわからず。
とりあえず、交通の歩道の飾り、という事なんでしょうが。
ただ、これ雨ざらしですから、あと10年もしたらボロボロになって
撤去されるのが目に見えてるような…。

ちなみに、プロペラとスクリューの説明、短い文章ながら
作用反作用と揚力の両面から、キチンと最低限の解説を行なっており、
さすがはスミソニアンの街、と思いました。



その先にあったこれはユニオン パシフィック鉄道が
1943年に造った貨車の台車らしい…と思ったら、
展示の主題は下のレールの方でした(笑)。

現在も使われている逆Tの字型のレールと、
これを固定する枕木の組み合わせは、
アメリカのジョン・スティーヴンス(John Stevens)が
1831年に発明したものなんだとか。
ええ、そうなの、と驚いて帰国後に確認してみました。

その2年前、1829年に世界初の旅客運用された
イギリスの蒸気機関車(最初の蒸気機関車ではない)、
スティーブンスン(stephenson)のロケットの号の絵を見ると、
確かにレールの形が違うし、明確な枕木らしきものもないですね。
(後世の絵には、枕木もT字型レールも描かれたものがあるので要注意)

あれま、近代鉄道のレールの発明がアメリカ人によるとは初めて知りました。



その先から、なんだか妙にお城チックな壁が始まる。
どうやらここがワシントンD.C.の海軍工廠のようです。

19世紀のアメリカ海軍は7大海軍工廠と呼ばれる施設を持っており、
初日に見たボストン、そしてニューヨーク、ニューハンプシャー、
フロリダ、ニューロンドン、フィラデルフィア、
そしてこのワシントンD.C.がそれにあたります。
ちなみにニューロンドンは耳慣れない地名ですが、
コネチッカット州の都市で、現在は潜水艦基地の方で有名です。

D.C.の海軍工廠は、独立間もない1799年に首都の防衛基地&造船場として設置された
海軍工廠で、海軍が公式に入手した最初の基地だったようです。
ただし、その後から建設が始まったため、すでに完成していた造船所を転用した
例のボストン海軍工廠などより、施設全体としては新しいものとなっています。

が、英米戦争の焼き討ちを逃れ(一部は破壊されたらしいが)、
南北戦争でも戦場にならなかったため、
ここには歴史的に貴重な建物が多く残っており、
どうも基地の大部分が例のNHL(National Historic Landmark)、
国家歴史構造物の認定を受けています


この壁と角の塔の様な建物も
19世紀初期のものがそのまま残ってるようです。
この時期は英米戦争後という事もあり(この辺りの建設は南北戦争前だと思う)、
本気である程度の防衛力を持たせる気だったのか、とも思えますが、
あの塔が拠点防御に使えるとも思えないので、単純に装飾ですかね。

現在、この海軍工廠には造船用の施設は残ってませんが、
それでも1960年代まで各種兵器、電子装備の生産工場が置かれており、
海軍の中でも重要な施設であり続けました。
特に第二次大戦中はアメリカの中でも最大級の軍需工場の一つだったとか。

ついでに、海外のお客にアメリカの力を見せてやるぜ、
という目的でも使われたようで、幕末の小栗使節団もここに招かれてますし、
明治になってからの岩倉使節団も訪問しています。
(よく見る小栗使節団の集合写真はこの海軍工廠で撮影されたもの)

最初の小栗使節団の記録を見た事がないので、
(記録好きの勝海舟と福沢諭吉はサンフランシスコから折り返し帰国済み)
明治の時の岩倉使節団の記録を見ると、意外や思ったほど驚いておらず(笑)、
45エーカーという敷地面積の説明と南北戦争時代のものと思われる
装甲艦と汽船が三隻ずつあったよ、
という記述だけでオシマイとなってます。

ちなみに、米欧回覧実記は
意外なところで意外な資料になる事が多いのですが、
このワシントン海軍工廠の記事の中で1872年のアメリカ海軍が
南北戦争終結によって続々と兵士を退役させ軍艦を売りまくってる、と述べていて、
第二次大戦後のアメリカと同じような光景があったのだなあ、とわかります。

ついでに1872年のアメリカ海軍の保有艦艇数も出ていて、
装甲艦が51隻、蒸気船が69隻、帆船が30隻となっているそうな。
この20年前、ペリーの黒船時代にアメリカ海軍の
ほとんどが帆船で蒸気船は数えるほどだったことを考えると、かなりの成長でしょう。
終戦後でこれですから、戦争中はかなりの艦数だったと思われます。



で、こちらが正面入り口。

ちなみに、ここは現役の軍施設ですから、一般人は入れません。
じゃあ何しに来たのか、というと、
この工廠は第二次大戦の海戦に興味がある人間なら、
一度はお世話になってるであろう 海軍歴史センター(Naval Historical Center)
の所在基地で、そこが運営する海軍博物館が敷地内にあるのです。

ちなみに海軍軍人の最高地位、
海軍作戦部長(Chief of Naval Operations)の公邸があるのもここです。
陸軍、空軍の参謀総長と統合参謀本部の議長はヴァージニア州側、
普通の街中に公邸があるのため、DC内の、しかも基地内で暮らしてる
海軍作戦部長はちょっと珍しい存在となってます。
(海兵隊と沿岸警備隊のボスがどこに居るのか知らないけど)

ちなみに、ここに海軍作戦本部がある、という日本語の解説を見ますが、
Chief of Naval Operationsは役職名で、部署名ではないので、
単に作戦部長の家があるよ、という英語の誤訳でしょうね。

でもって、ここで不安要素が二つあります(笑)。
まず一つは、誰も覚えてないでしょうが、初日の記事に書いたように、
私がアメリカ入りする前日、わずか6日前の9月16日にここで銃撃事件があり、
多数の死傷者が出ています。
(ちなみに連載記事タイトルの日付は日本時間なので計算が合わない)

犠牲者の方の冥福を祈らせていただきますが、
とりあえず、事故は博物館がある場所からはかなり離れてる。
さらに、周囲にすでに警察はおらず、現場の保管は終わってるらしい。
だったら、なんとかなるか、と思いますが、
ここで不安要素その2が登場します。

ホームページを見ると、海軍博物館、週末はだいたいやってるけど、
基本的に不定期開館なので、訪問前に電話で確認してね、と書いてある。
が、この世で英語でかけた電話にロクな思い出の無い私としては、
それは無理な相談といえましょう。
よって、事前確認無しで乗り込んで来たのでした。

で、ここの門に居た衛兵さんに「海軍博物館は本日見れるアルカ?」
と聞いて見ると、しばらく考えた後に、
ここじゃ判らないから、隣の門に行って、といわれる。
ちなみに、エラく美人の女性兵の人で、とりあえず、
これだけでも思い残すことはないな、と考える(笑)


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