■骨の物語



その入植地の場所の地図。

イギリス系の皆さんの初の入植地が、ワシントンD.C.の南、
チェサピーク湾に臨む現在のバージニア州沿岸部でした。
オレンジの円で囲まれたあたりが、その入植地で、
ここには1607年4月から入植が始まってます。
これは家康が江戸幕府を開いてから4年後ですから、
アメリカ大陸の歴史は日本の江戸時代とほぼ同時スタートと考えると
分かりやすいかもしれません。

この展示の中心となってるのは、下の円、アメリカ最初の殖民集落とされる
ジェームスタウンからの出土品のようでした。
ちなみに、左上のほうに見えてる星印が現在のワシントンD.C.の場所。

ただし、このあたりは湿地帯だった上に、当時はマラリア蚊が居たとされ、
当初100人を超えていた入植者が、その年のクリスマスには32人しか残って無かった、
とされますから、極めて壮絶な状況だったと考えていいでしょう。

例の飢餓の冬はまだその後も続くわけで、おそらく当初の殖民者は
ほとんど死滅してしまったんじゃないでしょうか。
ただし、その後も次々と入植者が来たため、
ここがイギリス人によるアメリカ植民地の先駆けとなって行くわけです。

ちなみに以前に説明したマサチューセッツ湾にメイフラワー号の清教徒集団が上陸するのは
1620年代ですから、ジョージア州のほうが13年も早く入植が始まっています。
(そもそもメイフラワー号もヴァージニアを目指してたが北に流されてしまった)
ヴァージニア(処女地)という名前も、もっともだなあ、と思ったり。
(ただしこの名前の由来は諸説あり)

ちなみに、北の理想主義で排他的な清教徒、
貧しさから一攫千金を夢見て山師的な移民となったヴァージニア周辺の移住者、
という構図は、なんとなく現代に続くアメリカ南北の地域性の
原点となってるようにも見えますね。



当時の入植地の再現ジオラマ。
無人の土地ではない北米大陸に押しかけて来た彼らは、
当然のごとく、現地のアメリカンインディアンの皆さんとは敵対関係になります。
さらにこの時代だと、狼やら灰色熊もこの地域にまだ生息していた可能性があり、
このため、入植地は砦のような構造となっていて、
さまざまな脅威から身を守れるようにしてあったようです。

写真は当時の再現衣装を着たマネキンさんですが、手に持ってるのは銃ではなくヤリでした。



右の若者も骨からの復元模型で、
これは左の写真にある骨格の人物らしいのです。
彼はジェームズタウンの中でももっとも古いと見られる
墓所に葬られており、この土地の最初の犠牲者ではないか、と見られてるそうな。

入植した2週間後にはアメリカンインディアンの襲撃で最初の死者が出た、
と当時の記録にあるそうで、この骨格には石の矢じりが残っていた事もあり、
彼がその犠牲者の可能性が高い、とのことなんだとか。



さらには、こういった遺骨も出土してたりします。
明らかに銃弾で頭を撃ち抜かれてますね。
他にも顔中に散弾銃の球が食い込んでる遺骨などもあり、
これらは石の矢じりを残してゆくような
アメリカンインディアンの仕業とは考えにくいものがあります。

これが事故なのか、入植者同士の争いの結果と考えられるのか、
例によって何の説明もありませんでした。



でもって、入植開始後、30年後ごろから、早くも黒人奴隷が
アメリカに連れて来られています。
ジェームスタウン周辺からも、彼らの遺骨が見つかってるそうで、
これもそういった骨からの復元らしいです。


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