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![]() では撤収に入りましょう。政庁跡から見ると南門は完全に眼下であり、かつ一帯の地形がまったく整理されてないのが判ります。この向こうはもっと平地で、そちらからは街区の遺構が出ており、当時から利用て来たはずなのです。なぜこんな凸凹な土地に中心部に置いたのか。何か理由があったのか、担当者の頭が悪かっただけなのか、それとも凶悪な邪神がこの下に封印されていたりするのか。どうも謎ですね。 とりあえず西の大宰府に比べると規模は半分以下、そして戦乱の旅に何度か歴史の表舞台に出て来る大宰府に対して、「宝亀(ほうき)の乱」くらいでしか登場しない、万葉集どころか、主な歌集では一度も読まれたことが無い、という地味めな存在ではあるんですが、思った以上の規模だった、というのが正直な感想です。まあ、奈良時代に時間遡行して火星人と戦う事になったなら、迷わず大宰府を選ぶ、という決意は動きませんが、金星人とかアンドロ梅田辺りなら、ここで迎撃もありだと思います。 ちなみに帰宅後に確認したら、大伴家持、晩年はここに居た説があるんですね。万葉集の主要編者にして、大伴旅人の息子。大伴親子はパパが大宰府、息子が多賀城の人だったのか。これは知りませんでした。 ![]() 駅に戻って参りました。奥に見えているのが東北博物館。この一帯の建物、よく見るとなんかカオスだな。 ![]() さて、では仙台に戻りましょう。現在午後5時半、3月中旬だと間もなく日没です。でもってJR東日本だからと油断していたんですが、下り線ホームに見た事ない電車が走って来た。どうも東北方面でしか見れないE721系だそうな。意外に首都圏で見れない電車ってあるのね。 ![]() などと思っていたら、仙台行きの電車も見た事ない車両でした。こちらはちょっと古めの701系らしいです。では、4年半ぶりの仙台に向けて撤収でございます。と言った感じで、今回の本編はここまで。 |