|
![]() ではそちらに向かいましょう。ちなみに左手に見えている小さな建物が多賀城碑の入って居る小屋。 近年の発掘で、この反対側、門の外の南側に歪んだ碁盤目状の街並みが確認されています。発掘図で見る限り、これも正方形ではなく平行四辺形のような街並みで、なんかこう、微妙な残念感がただよう施設ではあります。ただし、それらを入れるとかなり巨大な規模だったのは確かで、大宰府ほどでは無いにしろ、かなりの規模の施設ではあったようです。 ![]() そこから先ほどみえた道を北上します。途中にあったこれは旧南門跡。もとはここに土塁と門があったのを、途中で先ほどの位置まで移動、拡張したらしいです。となると、施設の拡大が必要なほど賑わった時期があった、という事なんでしょうね。 ![]() 再現された官舎の建物。まあ骨組みと屋根だけですが、これも30年後には腐ってボロボロになってると思いますよ。ついでに何の資料も無いままの再建、というのも南門と一緒。法隆寺の食堂を参考にしたとの事ですが…。 ![]() そこから南門を見る。この南門から政庁跡まで間に多くの建物が密集していたようで、かなりの規模の行政施設だったと思います。蝦夷に対する軍事的な北の最前線だけでなく、政治的な施設でもあったのは確かなようです。 ![]() では政庁跡の一帯に向かいましょう。こうしてみると、それなりの高台にあり、これ軍事的な要塞的な構造ゆえかなあ、と思ったんですが確証無し。前回見た乱のときはあっさり燃やされてますしね。 |