掘立柱建物、というそうな。地面に柱の穴しか無く、掘られた床や炉などの跡が無いので高床式の建物と考えられているそうな。こういった建物の絵は弥生時代の土器に見れますから、この時代にあっても不思議は無いでしょうね。ちなみに柱の間隔には一定の法則性があり、すでに何か長さの基準となる単位があったようです。

この手の建物の復元で常に気になるのが鉄器の不在です。当時は鉄器も銅器も無い、すなわちまともな切れ味のある刃物がありません。加曾利貝塚周辺の千葉市民なら知ってると思いますが、石器、鋭利な黒曜石ですら草を切るのは大変なのです。…茅葺の屋根は有りえなくない?実際、室町以前の建物で茅葺なものは確認されて無いはず。

こういった高床式の建物はともかく、一般的な縄文期の住居は日本中で普通に見られる土壁じゃないかなあ、と個人的には思っています。



でもってその先にあるのが三内丸山遺跡を有名にした巨木の謎の建造物(左)と日本最大とされる縄文期の住居跡(右)です。



ちなみに謎の巨大構造物の復元建築は出土地点とは別に建てられており、実際の出土地点には例によって展示用の建物があり、これを見る事が出来ます。



おお、こうしてみると確かに巨大な穴ですね。写真では切れてしまっていますが、右下にも穴があり、規則正しく六つの穴が地面に開いてます。



これが建物の支柱跡と判断された根拠は、クリの巨木の柱の根幹部分が出土したから(ただし四つの穴のみ、一番北側の二つの穴は何も入って居なかった)。でもって出土時のものが残されているのか、と驚いたんですがこれはレプリカのようです。現物は後ほど、隣接する博物館で見れました。


NEXT