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![]() では三内丸山遺跡の見学に入りましょう。ちなみに三内丸山は遺跡のある地名で、三内が大字、小字が丸山、合わせて三内丸山で、こういった地名が普通に残っているのは素晴らしいなあ、と思う。ちなみに古くから何かあるぜ、というのは知られていたそうですが、本格的な発掘が開始されたのは一帯の開発計画、県営球場建設計画が動いた1992年からとなります。で、事前調査のつもりで掘って見たら出るわ出るわ、日本を代表する巨大縄文遺跡であることが判明、そのまま保存が決まって現在に至るようです。 実際はこの遺跡の周囲も含めてかなり巨大な縄文住宅地だったと思われますが、市内中心部に近い事もあって、周囲は開発が進んでしまっており、実態は永遠の謎となるでしょう。それでも縄文銀座、東北の顔とも言える遺跡なのです。 一帯の集落には中央通りとでも言う大通りが通過していたそうで、どうやらこの道がそれみたいです。とりあえず道伝いに行って見ましょう。 ![]() 途中で見かけたの謎の土塚。周囲に環状列石があり、中央が墓だったようです。こんな立派なお墓を造って居たら1700年の間に一帯は墓だらけになってしまったと思うので、有力者の墓ですかね。となると農耕文化が始まる前から身分性が生じていたのか、という事になります。 ちなみに稲作が根付く弥生期程では無いにせよ、一帯で豆、麻、ヒエ、ゴボウなどの栽培は行っていた、という説が有力だそうな。 ![]() そこから先は住宅の再現地区。まあ、ネットやスマホどころかカメラすら無い当時の住居がどんなものだったか、銀河の誰も判りませぬ。すなわち明確な根拠が無い以上、何やっても肯定もできないけど否定も出来ない世界。すなわち、やったもん勝ちです。弥生時代になると、家らしき絵が出土してるんですけどね。古墳時代になると立体的な模型すらあるんですけど。 ![]() 地面に残った柱穴だけから上部構造を推測するってのは、塗りたてのコンクリートに残された猫の足跡から長毛か短毛か、そして毛色は何かまでを推測するような話なわけです。不可知を不可知と認めるのが研究の基本の基本でしょ、止める学者は居ないのか、と縄文時代の復元建築を見ると常に思います。よって3480円賭けてもいいですが、当時の家は決してこんな形状で無かったと思いますよ。 ![]() でもこれは地元の小学生が造ったものらしい。それなら一定の意味はあるのかな。思い出にはなるよね。いやでも、これ築14年なの。めっちゃ状態いいんですが。一定の手入れとかしてるんでしょうかね。 |