切通部のほぼ真上から。向こう側の尾根筋と本来は地続きだったのを切り崩して道を通したのが見て取れます。ただしここは街道筋だったので後世の普請の可能性もゼロでは無いですが、峠の最後にある低い尾根を越えるためだけに、これだけの切通を造る必要は無いはず。やはり砦の正門とするため、と考えるのが妥当かと。 切通の下に降りてみる。かなりの深さがある割に道は狭く、やはり砦の正門兼最終防衛線だったと考えるのが妥当かと思います。信頼できる史料に何ら記述は無いのですが、地元の伝承、そして実際の地形からして、ここを柴田が攻めた、少なくとも兵を置いて牽制したのは事実でしょう。戦闘後半に入ってからは柴田主力部隊の退路を断つため、ここから出撃しようとした羽柴軍(恐らく秀吉もそこに居た)と激戦となった、というのも事実だと思います。 ちなみに地元の伝承によると、有名な賤ケ岳の七本槍が活躍したのもこの一帯とされるようですが、あれはそもそも秀吉流のホラ話というかプロパガンダ要素が部分が多分にあると思われるので、まあ話半分として置きましょう。 とりあえず一帯を簡単な図にするとこんな感じですね。現地で見るまでここで砦は終わるのだと思ってたんですが、実際は道路対岸の尾根筋の一部まで明らかに造成されており、恐らく木製の簡易な城門のような構造物があったような気がします。 そこにあった看板。あれ、ここから西に行く道が無い。十字路になっているハズなのにこれじゃ三叉路じゃん。 と思ったら、その先にあった地図だとやはり十字路になっている。実際、さっき見たように対岸の尾根筋にも道はありましたからね。ただし西に向かう道はその先で南下して琵琶湖方面に出ちゃっているな。これ、権現峠までは行けないのか。 ちなみにこの地図の北側にある余呉湖畔の国民宿舎、南の琵琶湖岸にあるユースホステル、既に10年以上前に廃止になっており、この看板、相当に古いものだと思われます。その割には色褪せも無く奇麗で、なにか不思議な感じがしますね。 西に向かう尾根筋の道は、少し南側に下った場所に入り口がありました。そこから見た切通方向。ちょうどここが峠の頂点にもなっています。やはり城砦の防御構造でしょう。賤ケ岳の砦、ここまで大規模な構造のものとは思っていなかったので、やはり見れるものは見て置かないとダメだなあ、と再認識。 |