砦跡直前でリフト乗り場方向を振り返ると既に見えず。ね、かなりの高低差でしょ。



到着。リフト、営業開始直後だったのですが、すでに上にお客さん居ました。ちなみに賤ケ岳の標高は421m、余呉湖を囲む峰の中では二番目に高い場所となります。



そこからの北に見えるのが余呉湖。反対側にみえる琵琶湖と比べてしまうと小さく感じますが、画面奥の北端部から画面下の南端部まで約2qほどある湖です。でもってこの先は日本海に至るまで山間部なんですが、一帯はかなりの雲量です。琵琶湖側が快晴なのに、ちょっと山間部に入るだけでこれだけ空の様子が変わるんですね。

そして天候が良ければ、ここから柴田側の山岳砦の中心部が良く見えます。一帯の最高峰の上に置かれた物見用の砦である行一山砦(659m)、その手前の尾根筋上に置かれた山上寺院の跡を利用している別所山砦(440m前後)。この辺りが柴田軍が築いた砦の密集地です。さらにここからは見えませんがその横には柴田軍が本陣を置いた柳ケ瀬の集落があります。柴田側が柳(夜)ケ瀬の合戦と呼ぶのは自分たちの本陣を置いた場所に由来するのです。

ちなみに奥の行一山までは約7qあります。そしてこちらから見えるという事は向こうからも見える、という事なのです。すなわち7qの距離を挟んで山上で睨み合っていた事になります。かなりの規模の戦いなのがこの辺りからも判るかと。



国土地理院地図より情報を追加して使用


では今回の賤ケ岳探索の目的を確認して置きましょう。なお誠に勝手ながら賤ケ岳戦の記事は皆さん読んでいる、という前提で話を進めます。

どうしても知りたかったのが余呉湖周辺を凹型に囲む山岳部の状況。まず柴田軍が侵入路に使った北西の権現峠から尾根筋を回って、すなわち湖岸に降りずに賤ケ岳の砦まで来れるのか。可能なら柴田軍もこの経路を使ったはず。同時に羽柴側の砦、北東の岩崎山砦と大岩山砦は賤ケ岳の砦とどの程度まで連結されていたのか。北東の両砦が連結されていたのは当時の史料からも確かです。そこから北陸街道が走る谷底を通過して東の田上山まで連なる防護柵があり、連絡用の路も造られたはず(恐らく土塁と壕になっていたと思う)。よってそれらは羽柴の本陣である田上山から連なる一連の砦でした。果たして賤ケ岳の砦はその中に組み込まれていたのか。まあ、世の中の120%の人には興味が無い話でしょうが。

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