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![]() ジャガー XK120(Jaguar XK120)、1951年型。 1948年発売のイギリス、ジャガー社による戦後最初のスポーツカー。当初は1948年のロンドンモーターショーに展示されたエンジン技術デモのための車だったのですが、発表された途端にそのデザインで大きな話題となり、そのまま発売される事になったそうな。1万2千台が製造され、この手の車としてはそれなりのヒット作となっています。これも多くがアメリカに輸出されたようです。こちらは左ハンドル仕様もあり。 ちなみにジャガーが高級車メーカーなのは事実ですが、そのスポーツカーは比較的安価なのが人気の理由の一つでした。そこそこ安くて速くてカッコいい車がジャガーのスポーツカーなのです。この辺りは後に日産のフェアレディZが同じような理由でヒット作になるのですが。 エンジンは3441cc、DOHCの直列6気筒のXK16型で、これをフロントに置いての後輪駆動(FR)でした。ちなみに数字の120はヨーロッパ車でお馴染み税制の数字では無く、最高速度の時速120マイル(192km/h)を意味します。当時の市販車では世界最速の速度でした(ちなみにギア比と風防ガラスだけを変えた記録用車両では210km/hを出している)。型番のXKは搭載したエンジンの名称で、当初はこのエンジンをテストするための試験用車両&デモ車両として設計されたためだと思います。ちなみにXKエンジンは基本設計を残したまま、排気量を上げる形で後々までジャガー社の車に搭載され続けました。 初期に生産された242台は木製フレームにアルミの外板を貼った手作業で造られる車体で、途中から量産が効くプレス製の全鋼製シャシ―に交換されたとか。まあイギリスは大戦中に木製の双発エンジン戦闘機、モスキートを造っていた国ではあるのですが、凄い話ですね。 ![]() 展示の車両は1951年型との事なので鋼製のフレームになった後の車両です。これはオープン型ですが屋根付きのクーペもありました。 脚回りはフロントにトーションバー サスペンションを採用しており(垂直に伸び縮みするのでは無く、横置きされたバネのねじり抵抗を利用したサスペンション。ネズミ捕りなどの罠に使われている横置きのバネと同じ原理。戦車では捩じってない金属棒の左右を抑えてバネ替わりにする事も多い。このためバネ定数ではなく、ねじり定数に基づき作用する)、これは後のヒット作、E型のフロントでも踏襲されます。スポーツカーが戦車式のサスペンションかよと思っちゃう所ですが、この時代でそれなりの数の採用例があります(同じ英国のモリス社、アメリカのパッカード社などが採用している)。ただまあ、スポーツカーに向いた構造では無い気がしますけど… 全体的に流線形の美しい形状ではあるんですが、個人的にはナメクジみたいという印象で好き車ではな無いです。ヘッドライト周りのデザインとかも戦前の流行りから抜け出せてないな、という印象ですし。 ![]() ポルシェ 356(Porsche 356) 1100 の1950年型。 ポルシェ社のデビュー作となるスポーツカーであり、1948年に発売開始となったのがこの356です。後に911にまで引き継がれる、水平対向空冷エンジンを車体後部に搭載した後輪駆動(RR)の構造を持つスポーツカーでした。まあ、ぶっちゃけフォルクスワーゲンの設計思想をそのまま引き継いでるんですけどね、この辺りは。設計に関してはフェルディナント・ポルシェ博士は一切関係していませんが、サスペンションやエンジン収納部はフォルクスワーゲンから流用された設計のものが使用されています。実際、当初はフォルクスワーゲンの部品をそのまんま使っていたようです。 365は1965年、走る伝説911のデビュー直後までエンジン排気量を引き上げながら製造が続きました。当初はこの1100ccが投入され、1951年から1300ccと1500ccエンジンが搭載されるようになります。さらに1955年に二代目のA型が発売になると1600ccが追加となり、1960年に登場する三代目のB型では2000ccが追加となりました。ちなみに最終世代、1964年から65年まで、わずかに二年間だけの生産で終わった四代目のC型ではエンジン排気量の拡大は無しです。 余談ながらポルシェの1948年の会社設立時の名称はDr. Ing. h.c. F. Porsche AGではなく、Porsche Konstruktionen GesmbH でした。これは戦後、戦勝国による財産没収などを回避する目的で、当初はオーストリアで会社を設立、その後、1950年に西ドイツに改めて移転した後に社名を変更したためです。なので資料によっては当初、別会社によって生産されたと述べられていますが、実際は名称変更しただけで同じ会社と考えていいでしょう。このため、1948年のデビュー当初はオーストリアで生産され、1950年から西ドイツの工場に移転しています。ちなみに最終的には7万6300台を生産する大ヒットとなるのですが、売れまくるのは二代目、1955年デビューのA型以降で、初代の無印356は7年間で7600台しか製造されていません(内、最初の50台だけがオーストリア製)。これまたトヨタ博物館、よくぞ手に入れたなあ、という一台です。 戦後に改めて設立されたポルシェ社は息子の“フェリー(Ferry )”ポルシェが会社の運営に当たっていました。ちなみに親子そろって名前はフェルディナントゆえ、この息子の方は愛称のフェリーで呼ぶのが一般的みたい。さらにちなみに911の設計に関わった方のフェルディナント・ポルシェはこの人の息子で、初代フェルディナントの孫となります。こちらの愛称はブッツィ(Butzi)。さらに言えば、甥っ子のピエヒの名もまたフェルデナントで、こちらは長年フォルクスワーゲンンのCEOでした。なんなのこの一族と思ってしまう所。まあ19世紀までドイツはどっち見てもヨハンだらけで、親子でヨハンは珍しくないんですが、一族に片っ端からフェルディナントと名づける文化もまたあったんですかね。 ちなみに“フェリー”・ポルシェはナチス親衛隊、SSに志願入隊した親衛隊員でした。ただし、最後まで戦場に送られる事なく終戦を迎えています(1938年12月、開戦直前に29歳で入隊。本人はシュビムワーゲン製造のための強制入隊だったと述べているが時期が合わぬ。虚偽だ。そういう人なのよ)。さらに戦後のインタビューで、アルファロメオもBMWも持っていた、さらに戦中にエンジンにスーパーチャージャーを搭載したフォルクスワーゲンのカブリオレを入手し、これを乗りまわしていた、とも述べています。あまり好きにはなれませんね、この人。 そのフェリーが1972年に受けたインタビューの中で、そのスーパーチャージャー付のフォルクスワーゲンが365の原点である、小型の車両でも強力なエンジンがあれば大形車よりも操縦性の良い車になると気が付いた、と述べています。ただし初代の無印356が最初に積んだ1100cc 水平対向空冷4気筒エンジンは40hpであり「強力なエンジン」とは言い難いものでしたけども。 ちなみにパパ・フェルデナントはフランスで刑務所に入ったりしていたので、この車とは全く無関係。フェリーも設計には関わってません。ちなみにフェリーも1945年12月にフランスで逮捕されてるんですが、自分だけ保釈金払って先に出て来てしまったのでした。 ![]() 個人的には356は美しいともカッコいいとも言い難い印象で、なんで車輪がこんなに車体の奥に食い込んでるの、とか全体的に野暮ったい感じが拭えませぬ。本日はこの車をプレゼント、とか言われても要らんわ、お前が持って帰れという感じですね。個人的にポルシェデザインは1970年代に完成され(924,928、930は自動車デザインの一つの頂点だと思う)、それまでもそれ以降も基本野暮ったくてダサい、という感想を持っております。あの数年間はなんだったんだ、という感じです。特に21世紀に入ってからの豚みたいに太ったポルシェは見たくも無いですね。この辺りの事情はホンダもそうで、1980年代後半から90年代までのカッコよさとそれ以降の絶望はホンダファンとしては涙無くして語れぬ部分があります。 ちなみにトヨタ博物館は1954年型の365 1500スーパーも持っている、というかアーカイブにはこちらの記載しかなく、この1100は存在しない事になっています。理由は不明。最近になってコレクションに追加されてんですかね。ちなみに筆者の訪問時には1500の方は見ることが出来ませんでした。 ![]() うーん、カエルとナメクジが地獄で合体して京都で漬物屋営業してますどすえ、的なカッコ悪さを感じます。特に車輪、ホントになんでここまで車体の表面からズレて奥まった位置にあるの。 この後、A、B、C型と徐々に洗練され、いかにも911の原型、という形に成って行くのですが、それでもあまり好きにはなれないんですよね、どうにも。この辺り、フェリー・ポルシェのいけ好かなさ、という心理的な影響もあるかと思いますが… |