さて、賤ケ岳合戦を巡る旅第二回戦2日目、最初の目的地は中河内となります。とりあえずその場所を地図で確認して置きませう。 国土地理院地図に情報を追加 今回の旅の拠点の一つである木之本の集落から直線距離で約20qほど北にある小さな集落です。おお、あの中河内か、と言う人が居たら余程の歴史好きを通り越して変態だと思うので近づかない方がいいでしょう。現在は北陸(北国)街道、国道365号線で真っすぐ行けますが、この経路が完成したのは賤ケ岳合戦の片方の主人公、柴田勝家が北陸に入ってからです。もともとは柳ケ瀬から先は西の刀根峠を経由して敦賀側に抜ける道しかなく、これは現在の北陸自動車道の経路とほぼ同じで、上の地図だと緑色の道路で示されています。ここから中河内までぶち抜いたのが柴田勝家なのです(すなわち椿坂峠に街道を造った)。 それ以前は中河内から東に、高時川沿いに南下する遠回りの道しかありませんでした。地図上では黄色い道で描かれた県道がそれです。実際、古くは中河内に関所があり、柳ケ瀬の関所ができるのは江戸期に入ってからでした。現在、この中河内から東に向かう道は県道285号線になっていますが、あちこちで通行止中の荒れた道となっています。当時も決して楽な経路では無かったでしょう。さて、筆者的に注目なのはこの道はかつて軍の侵攻にも使われていた、という事です。信長と対立した浅井・朝倉連合ですが、北陸の一乗谷から朝倉の軍勢が琵琶湖岸の浅井の応援に来る時、この道を利用していました。ただしもう一つ、敦賀からグルっと回り込んで来る道もあり、これが先に触れた刀根峠を越て柳ケ瀬に至る道に繋がります。大軍の進撃などにはこちらを使ったようです。 中河内が戦国史の中で最も重要な意味を持ったのは「信長公記」巻の六、元亀四(1573)年の浅井・朝倉連合壊滅の時でしょう。旧暦8月12日、嵐の夜に信長は内通者の手引きもあり浅井の本拠地、小谷城を襲撃、完全に包囲する事に成功します。この時、朝倉義景は援軍を率いて木之本、余呉一帯(信長公記では「与語」)、たべ山(この地名は詳細不明)に陣取ります。賤ケ岳の砦にも兵が入っていました。この時、前回見た田上山砦に義景が本陣を置いたとされており、やはりこの段階で一定の規模を持つ城砦だったと思われます。朝倉義景が小谷城からやや離れた木之本から余呉湖一帯に居たのは信長が北国街道を封鎖、小谷城への連絡を絶っていたからです。 この時、小谷城の危機を知った朝倉義景は二万近い兵を持ちながら(数字は信長公記から)救援に向かわず(そういう人なのよ)、木之本一帯から撤収を開始します。この義景の臆病な行動を完全に読んでいた信長は、嫡男の信忠を小谷城包囲の責任者として残し、嵐の深夜に一気に北上、その追撃に入ります。この辺りの戦場勘が信長の凄みなんですが、凄すぎてこの時は他の武将は置いてけぼりにされてしまいます(笑)。この結果、織田軍は十分な戦力が揃わず、木之本一帯の朝倉軍の撤退を許してしまうのです。 ちなみにこの時、遅れて駆けつけた配下の武将(佐久間、滝川、柴田、丹羽、羽柴、稲葉ら。明智を欠くが織田軍オールスターである)を激怒した信長が罵倒して𠮟りつけるのですが、織田家の重鎮だった佐久間が信長に反論、「いや僕たちほどの家臣団はどこにも無いと思うよ」と述べてその怒りに給油してしまいます。7年後の佐久間追放の時の罪状の一つとされているのがこれで、信長の執念深い性格が伺える部分でもあります。 この時、問題になったのは朝倉義景の退路でした。朝倉軍は二つの経路、刀根峠から敦賀に抜ける旧北国街道と中河内(信長公記では「中野河内」)に至る道に分散して撤退していたのです。どちらが義景の率いる主力かの判断が求められたのですが、信長は義景はより本格的な城砦があってそこに避難が出来る敦賀方面に向かったと即断、その追撃に入るのです。これは正しい判断だったのですが、刀根峠で朝倉が反撃に出たこともあって義景を捕らえる事には失敗します。結局、一乗谷まで攻め込むものの義景はさらに逃げまくり(そういう人なのよ)、最終的にかくまってもらった身内の武将に裏切られて討ち取られます。 この時、朝倉軍の一部が中河内に向けて逃れた、という記述が個人的にはずっと気になっていました。義景がこの道を使わなかった事、信長もこの点を見抜いていた事などから大軍の移動には向かない道だとは思うのですが、それでも一定の軍勢は移動できた事になります。日本人の常識、賤ケ岳の合戦では羽柴軍が北陸街道を完全封鎖してしまうのですが、この中河内の道が生きていたのなら、その封鎖を回避して琵琶湖岸に出れてしまうのです。なぜ柴田軍はこれを使わなかったのか。逆もまたしかりで、羽柴としてはこの道を北上して中河内の砦と関所を抑えてしまえば、北国街道を北でも封鎖でき、柴田の補給路を断ってその籠城戦を終わらせる決め手になったはず(西の敦賀は羽柴派の丹羽長秀の本拠地だからこっちも封鎖済み、東に道は無く、南は羽柴が封じた。よって完全包囲の完成となる)。この辺りの事はいずれ別の機会に述べるとして、とりあえず今回はその中河内を訪問してみませう。 |