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![]() 一番奥の辺りから。現在は樹木で覆われてしまっていますが、確かに眺望は良さそうな立地です。この高台側が信長の「宮殿」だった可能性が高いでしょう。この辺りからは金箔で修飾された瓦が出土したようで、かなり豪勢な建物だったと思われます。 フロイスの日本史によると、回廊、廊下が複雑に組み合わされ、多くの部屋と厠がある建物があり、見事な複数の庭と底に白砂が敷かれた池が備わっていたとの事。その屋敷の外廊下は円形で板敷は鏡のように磨かれていた、とフロイスは驚嘆しています(カンナが発明される前の時代で板を平面に磨き上げるのは相当な手間だった)。また円形の廊下にそった壁には物語形式の壁絵が描かれていたいた、との事。宮殿そのものは四階建てで、一階には20近い部屋があり、中は金箔で飾られていたようです(フロイス自身は中を見ておらず、伝聞の形で記述されている)。二階には婦人たちの部屋があり、これも一階に劣らぬ見語な装飾で飾られていたと。三階は周囲の石壁と同じ高さがあり、外廊下のある茶室が置かれ、そこからは岐阜の市内が一望できたとされます。眺望好きの信長さんらしい構造でしょう。四階に関しては記述が無く、おそらく展望台のような櫓だったんじゃないか、と個人的には想像しています。 ついでにフロイスは周囲の家臣団が信長を恐れ敬う様子にも驚いています。信長がちょっと手を動かすだけで、周りの家臣は飛ぶように立ち去り、部屋の中から信長が誰かあるかと呼び出すと、外から無数の返事が帰って来たとか。その伝令を受けたものは歩く事は許されず、馬か自ら走ってかで急ぎ向かう事になっていた、信長に報告する際は床に顔を押しあて、決して眼を上げる者は無かった、などなど。ちなみにイエスズ会一行岐阜城訪問の時、途中からその面倒を見たのが織田家古参の重臣、柴田勝家でした。ただしフロイスは勝家については特にコメントを残していません。 ![]() 三重の塔の下には、コロボックルのような女の子が入ったアポロ司令船のような碑が建ってましたが一切の説明が無く、詳細不明。 ![]() ではそろそろ撤収としましょう。 ![]() ちなみに例の板垣退助像、どこにも見当たらないな、と思ったら工事現場の奥で元気にガッツポーズしてました。この時はこれ以上近づくことができず。ただしどうも実際の襲撃&「自由は不死身発言」の現場はもうちょっと奥の方らしいですが。ついでに本来はこの辺りに信長の宮殿に至る入り口があったはず。 ![]() でもって公園の出口にいい感じの建物が。名和昆虫博物館だそうな。これは面白そうと思ったんですが、残念ながら休館日で入れず。 |