ではロープウェイから見えた発掘現場に行って見ましょう。フロイスの「日本史」によると麓には織田家の政庁と宮殿があったとされます。麓の一帯にも信長は住居を置いていたようですが、フロイスの記述を見る限り主に山頂の方に信長は居たよう見えます。ただし詳細は不明。

ちなみににこの石段はどう見ても明治以降に整備されたものでしょう。ホントに岐阜城は近年になってからの破壊が酷いな、と思う所なり。



発掘現場に出ました。かなりキレイに整備されていますが、この石畳とかは明らかに近年に整備されたものでしょう。右手の銀色の部分は防水シートのようで、恐らく現在発掘調査中の一帯ですかね。

この麓の建物に関しては、中公文庫版のフロイスの日本史だと第2巻、第38章に詳しい記述があります。まず一帯は巨大な天然石の壁で囲まれ、入り口には能楽堂(劇場)のような建物があり、左右に二本の巨木があった、そこから石段を登ると大きな広場に出、そこには一種の回廊があり、そこから町の一部が見渡せた、との事。その先に宮殿があったようです。

フロイスの記述だと政庁と信長の「宮殿」は明確に分離されており、宮殿の中には信長が許可しない限り、織田家の重臣でも入る事ができなかったようです。このため信長に直接報告するのは彼が宮殿を出てくるのを待つしか無かったと。フロイス一行は信長に招かれてその中に入ったのですが、同行した織田家の家臣らは初めて中に入ったと述べていたそうな。

遺跡の解説によると、恐らくこの左手が政庁跡、右手が宮殿跡ではないか、との事。
おそらく先に登った階段の辺りにフロイスの言う石段があったと思われ、その入り口に能楽堂があったのでしょう。信長さんの性格と立地からして能楽堂は一般にも開放していたような気がしますが詳細は不明。ちなみに本来の入り口は後で見る板垣退助像の辺りで、そこに建物はあったと思われます。



周囲の石垣は信長時代のものですが、その下から写真のような斎藤道三時代のものらしき階段の石組などが見つかっているようです。その上には炭の層があったとの事。信長は何度か稲葉山城を攻め、最後の城攻めの時に一帯を焼き討ちしたとされますから、その時の痕跡の可能性が高いでしょう。

ちなみに「信長公記」だと斎藤氏側はやって来た軍勢が敵か味方か判断がつかないまま山上まで織田軍に攻め込まれ、城を囲まれた後に斎藤龍興が逃げ出して落城、といった記述になっています。それに対してフロイスの日本史によると、まず野戦があったとしています。信長は軍勢を二分し、その半分に斎藤氏の旗印を持たせて欺瞞、これが敵の背後に回り込んで斎藤軍を挟撃する形を造って勝利した、との事。敗れた竜興はそのまま京都に逃れ、織田軍が稲葉山城(岐阜城)に入ったと。かなり異なる内容ですが、個人的にはフロイスの記述が正しい気がしています。この人、自分が実際に見聞きした事以外は書かないので。



見学路下の石垣。これも斎藤氏時代のものなのかな。



その織田家宮殿跡のど真ん中を横切る形でロープウェイが運行されています。その向こうに見えているのが例の「巨大な天然石」の一部でしょうか。

ちなみに奥に見えている三重塔は1917年、大正6年に建てられた建物で、大正天皇の即位を記念して建立したものだとか。…即位から6年も経ってから完成って、いくらなんでも時間掛かり過ぎのような気もしますが…。ちなみに事前に予約すれば中を見学できるそうな。ついでに明治期に架けられ、1913(大正4)年に解体された長良川の木製鉄道橋の材木を再利用しているんだとか。


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