柴田勝家が着陣し、当初は本陣を置いた柳ケ瀬の一帯。江戸期には街道筋の街として関所も置かれていた土地です。このちょっと先で西に分岐し刀根峠を越えて敦賀に向かう街道があります。今回は訪問できませんでしたが、ここも江戸期の街道の姿をまだ残しているらしいです。



柳ケ瀬の先、余呉川の向こうに見える尾根筋の向こうが刀根峠で、この尾根筋の上あたりに柴田側の玄蕃尾城、刀根城がありました。これは西の敦賀と長浜の連絡を断つため、その街道を抑えるための城と見るべきでしょう。先に見たように刀根峠で織田軍と朝倉軍は激戦となり、かなり苦戦したことを柴田勝家は覚えており、その地の利を知った上での築城だと思います。西の敦賀に居るのは秀吉の同盟者にして織田軍軍団長の一人、丹羽長秀なのです。



この辺りから道は山間の細い山道になって来ました。



バスで約30分、中河内の集落に到着です。ここが近江の国の北限であり、現在でも滋賀県の最北端に位置する集落となっています。一定の地位の人間が使用する宿泊施設、本陣跡の碑があったので、関所が柳ケ瀬に移った後も宿場町のような存在だったようです。現在の集落はその名残でしょう。



そして集落から西に伸びる、旧街道の県道。これがかつての木之本から中河内を結ぶ道だったわけです。ちょっとだけ歩いて見ましたが、確かに山の中を突破する道、という印象で、現在も多くの箇所が危険性から通行止め、というのも判る気がしました。当時でも行き来は大変だったでしょう。

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