再び西へ

今回は琵琶湖の北に位置する静かな湖、余呉湖とその南にある賤ケ岳再訪、そして戦国銀座ながら未訪だった岐阜、さらにその上、ずっと気になっていながらこれも訪問していなかった長久手のトヨタ博物館という結構、盛大な旅となりました。地図にするとざっとこんな感じで、北緯35度40分、東経136度1分から北緯35度1分、東経137度までほぼ150kmに渡る移動、それに加えて徒歩で歩き回った距離ざっと24km、これを二泊三日で決行しています。地図にするとこんな感じ。



何度も言っていますが、これは観光であり、物見遊山とは違う、己の限界に挑む戦いです。今回も帰宅直後は歩くのも大変、という状況でした。いい歳して何やってんだと自分でも思わなくは無いですが…。

今回の旅行のきっかけは、今年も6月に突然、まとまった休みが取れたこと、そして 2021年の旅行記でも触れた秀吉VS勝家34日間一本勝負だった賤ケ岳の合戦、これが未だに自分の中で納得が行ってなかった事でした。でもって余呉湖周辺まで行くなら途中、岐阜と名古屋にも寄って今まで気になっていた事を一通り片づけて来よう、と思ったのです。ただし最終的には時間が足りず、当初の予定にあった名古屋城と熱田神宮訪問は断念することになります。ちなみに名古屋〜余呉湖駅間は鉄道営業距離で約108km、東京〜宇都宮、東京〜熱海、大阪〜米原とほぼ等距離となります。鉄道でも車でも日帰り可能圏内でしょう。

賤ケ岳の合戦は極めて特異な、野戦と城塞戦が六神合体したような戦であり、同時に全体像がまともに掴めない不思議な戦いでした。このため決着から500年を過ぎた本日この時まで、恐らく正しく説明された事は一度も無いと思います。これは、この合戦について筆者がまとめた記事も例外ではありません。信頼できる史料だけではどうしてもいろいろな矛盾が生じて来るのです。

ちなみに筆者が合戦の記事を書いた段階では「江州余吾庄合戦覚書」の存在を見落としており、参照史料に出来ませんでした。これは合戦を何らかの形で見た人物が書いたと思われる一級の史料で、見落としたのは筆者痛恨の落ち度です(現在の記事はこの点を含め修正済み。ちなみに同じような題名で紛らわしい「余吾庄合戦覚書」は別物。こちらは資料的価値としてはゴミに近い)。この資料、極めて短く読みにくい文章なのは自分の知らぬ事は触れぬ、美辞麗句を並べる気も無い、という記録者として好ましい姿勢の結果だと思われます。さらに地名表記も今では現地の人ですら知らぬであろう古名で、その信憑性を高めています。それもあってまともに読めた人はこれまで恐らく居なかったのではないかと思います。実際、私が見た範囲でこの史料をまともに参照しているのは地元で貰った観光地図くらいでしょう。いやホント、この一帯の地元の皆さんの知識と伝承は侮れないんですよ。

この戦、そもそも賤ケ岳では合戦になっていないのに、なぜ賤ケ岳の合戦なのか(同時代の記録にこの名は無い。柳ケ瀬合戦、余吾庄合戦などと呼ばれている。賤ケ岳の七本槍も天正記/柴田合戦記では柳ケ瀬表の一番槍で賤ケ岳の名は無い。ついでに言えば本来は八人いる)。さらに同時代の記録に一切登場していない秀吉マブダチ、前田利家があの合戦で多くの部下を失ったと延べているのはなぜか、そして俺の作戦通りなら勝っていたとまで言い、秀吉がそれを間接的に認めているのはなぜか(以上「利家夜話」から。利家が死去してからこれに仕えた村井長明が自分が聞いた談話をまとめたもの。江戸期に入って何ら秀吉に遠慮する事のない時期に書かれた。ただし秀吉の夢に信長が出て来て、お前もこっち来いと言ったとか、国史研究会の活字本には後世の追記と思われる怪しい部分もあるので要注意。あと前にも書いた司馬遼太郎さんの勘違いにして未だ俗説として出回る信長×利家ラブ説も元ネタはこれ。あれは15歳のころから俺は信長様に仕えて一緒に寝泊りしながら遊び歩いてたんだぜ、という話で、男色自慢ではない。当時の「寝る」にそんな意味は無いし、そもそも司馬さんは主語を間違えて信長の発言だと思い込んでいる。ちなみに誤解無きよう述べておくが、それでも私は司馬さんのファンである)。

個人的にはまともに両軍が激突した戦としては日本最後にして最大、それは規模、知略、参加武将、全てに置いて凄まじい合戦でだったのではないか、と推測しています(関が原を最初から結末が決まっていた出来レースと見るかどうかにもよるが)。そしてそれは事実上、前田利家と秀吉の戦いであり、紙一重で秀吉が勝ったのではないか、と思っております。この辺りはいずれ別の形でまとめようと思っているので、今回はあくまで旅行記として記事を書いて行きまするが。

ではさっそく行って見ましょうか。

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