この辺りで浦賀水道、東京湾への入り口を超えます。以降は日本最大の船舶航行地区に入るため航行に厳しい規制が生じる、よってここからは時速12ノット(21.6km/h)の速度制限がかかります、との船内放送があり。航路も一定の範囲に固定されるようで、この段階ですぐ横を航行していた写真の船は以後、かなり長時間にわたり同じような位置関係にあり続けました。 ついでに航路は右側通行で、これって左ハンドル車線じゃん、と思う。航路に関しては右ハンドル仕様って無いんですかね。 でもって大形船が航路の先に横向きに停船してるらしいのが見えて、危ないなあれ、と思ってたんですが、近づいてみたらなんと島でした。あ、これ第二海堡(かいほう)じゃんと気がついた。こんな近くで見る事ができるとは。千葉県側の海岸線からぼんやりと何度か見てましたが、灯台まである立派なものだとは知りませなんだ。というか、これ元々の設備よりかなり大型化してるよね。私の知る限り、こんな護岸設備は無かったはず。 月下の第⼆海堡跡は、思った以上にロマンティックでございました。 首都東京を守る最後の砦として東京湾上に造られた海上要塞がこの第二海堡です。これ、別に太平洋戦争は関係なく、1914年に完成したもの(ちなみに完成まで25年掛かった)。ただし関東大震災で設備が大きく破損し、以後海上要塞としては放棄されてしまいます(そもそも艦載砲の射程距離が伸びた結果、富津岬から5qしか離れていない水上要塞は不要になっていた)。でもって第二がある以上、第一もあり、これは千葉県の富津岬のすぐ横に位置しています。当然、両者とも千葉県の領土です(ちなみに第三海堡もあったが不幸にして神奈川県に造ってしまったので震災で沈没、現存しない)。 ここは震災後に放棄されるまで陸軍の施設だったのですが、後に1931(昭和6)年からは海軍が借り受け(管轄は陸軍のままらしい)水中聴音器、対潜ソナー操作員の訓練所を置いてます。その後、太平洋戦争開戦後、1942(昭和17)年4月までに対空砲陣地も置かれて8cm高射砲4門と探照灯が設置され、さらに1944(昭和19)年1月の段階で12.7p連想高射砲2門が追加されたようです(恐らく本来は艦載砲である四十口径八九式十二糎七高角砲だろう)。アメリカ側もその存在には気がついており、少なくとも1945(昭和20)年に入ってから三回、ここを空母艦載機で攻撃してます。 (以上は東京湾口航路事務所発行の「富津市富津第⼆海堡跡調査報告書」による) ついでながら、かつては第一海堡までなら富津岬から歩いて行けたんですが、今はその砂州が無くなってしまい、直接行くことは出来ません。この砂州が無くなったのは1970年代前半の事でした。人工的に遮断したのかと思っていたんですが、国土地理院の航空写真で確認してみると1975年ごろを境に自然に水没してしまったように見えます。 (追記:掲示板で今でも引潮なら浅瀬の海中を歩いて行く事は可能、との指摘を頂きました。訂正して置きます) さらにちなみに何故か第一海堡は財務省の関東財務局の管轄、第二海堡は国土交通省の管轄で、第二の方のみ、見学できるツアーがあります。ほとんどのツアーはなぜか神奈川からの国境超えになりますが。 日没を迎えました。イヤン、ロマンティック東京湾。 間もなく星が出たので撮影してみる。露光時間は1秒なので、飛行機が通過するとこんな写真になってしまいます。 |