こちらが正面入り口。街の中心部方向では無く、川へと向かう参道からして航海の神様なんだなあ、と思う。でもって現地の解説を見たら大阪の住吉大社、下関の住吉神社と並ぶ住吉神社の源流とされていましたが、この神社は「日本書紀」に登場していません。

神功皇后がお世話になった御礼に建立した住吉三神の神社は二つ、和魂(にぎみたま 神の防御形態で神功皇后を守護した)を祭った大阪の住吉大社と、荒玉(あらみたま 神の戦闘形態で艦隊の先陣を進んだ)を祭った下関の住吉神社であり、博多の住吉神社は含まれまれないのです。ただし博多の住吉神社が主張するところによるとウチこそが住吉神社の元祖であり、そもそも禊中に住吉三神が産まれたのがこの地なのよ、としています。「日本書記」の第九巻では住吉三神は日向国(宮崎県)の海中に居る、となってますけどね。

余談ながら、神様が荒玉と和玉に分かれる、という話は他にもあり、同じ日本書紀の九巻では天照大神にも荒玉があり、これを西宮の廣田神社に祭ったとしています。実は新羅征圧の艦隊に付き添った荒玉と和玉が誰のものか明記は無く、日本書紀では単に「神の」とのみ述べらています。ただし両者を祭った神社が造られたのは住吉三神だけなので、この人達のだと思って間違いないかと。

さらに余談。漫画「三月のライオン」の舞台の近所、東京佃島の住吉神社も同系統ですが、こちらは大阪から持ち込まれたのに大社ではなく神社を名乗っています。これは本家住吉大社から奉還したのではなく、大阪佃島の田蓑神社を連れて来たからでしょう。大阪佃島の田蓑神社は一時期住吉神社を名乗っており、その関係だと思います。

以下、今後の事もあるのでちょっと脱線。
住吉三神に縁が深く、自分も一緒に祭られているのが先にも述べた神功皇后です。第14代仲哀天皇の皇后にして第15代応神天皇の母だった人物で、旦那が亡くなって息子が即位するまで日本の政治を取り仕切っていました。日本書紀や古事記の記録と一部が一致する記念碑、高句麗による好太王碑の記述から推定すると恐らく四世紀末ごろの人物だと思います。事実上の天皇だったのですが皇室典範では認めてないので仲哀天皇と応神天皇の間に数十年の空白が生じる事になっています。まあ皇室典範の前半は系統図を名乗る一発ギャグですから、無視していいですけどね。

この神功皇后は神話時代に近い世代なので実在を保証するものは無いのですが、記述が具体的な事、高句麗による記録である好太王碑の内容から、朝鮮半島への侵攻があったのは間違いない事、そして彼女の息子である応神天皇の時代に日本に文字がもたらされた、とされるので一定の記録が残っていた可能性がある事、などから実在した、少なくともモデルになる女帝が居たと私は推定しています。日本古代史の最大の見せ場である新羅討伐戦の主人公ですから、架空の存在ならヤマトタケルのような無敵の英雄にすると思われ、わざわざ妊娠中の人妻という妙にマニアックな設定にする意味は無いでしょう。日本書紀の作者が人妻好きの特殊性癖の持ち主だった可能性も残りますが、古事記でもほぼ同じ内容なので作者人妻マニア説は学術的に否定されます。

神功皇后は戦う女帝でした。この辺りは日本書紀の第九巻に詳しいのですが、並みの荒武者なんざ裸足で逃げ出す人物で、しかも才色兼備、美人で聡明だったとされます。でもって先に触れたように旦那の仲哀天皇は神さんに殺されちゃったので、美貌の未亡人が妊娠中に海を越えて隣の半島に攻め込み、新羅を撃ち破ってしまった、という事になります。これだけマニアックな設定は世界史的に見ても珍しいでしょう。いろんな要素盛り過ぎ、とすら思えます。さらに新羅征伐前には九州北部に居た土蜘蛛族(大和朝廷に逆らう地方豪族に対する蔑称)との戦闘で自ら先頭に立ち、敵の田油津媛を討ち取りました。こちらも女性だったので、女性司令官どうしの対決と言う、世界史的に見ても貴重な例になっています(ただし田油津媛には兄が居たので、これとの共同統治だったかもしれない)。

ついでに以前に指摘した福岡一帯の「みかさ」の地名の由来はこの人、とされています。九州征伐戦中、神功皇后が福岡の香椎神宮から南下しようとした時、御笠(みかさ)が突風で飛ばされたので、一帯に「みかさ」の名が付いたとし、これが大宰府の北にある御笠地区の由来とされます。そこから流れ出るのが博多地区で海に入る御笠川なのです。この時代にまだ大宰府は無いのですが、一帯は彼女の進撃路の途中に位置しています。さらにもう一つの福岡の御笠、御笠山がある志賀島は、ここの漁民(海人)を神功皇后が偵察に使い、朝鮮半島までの航路を発見させた事になっています。よって一帯の御笠の名はほぼこの人に由来する可能性が高いでしょう。ただし御笠が何を意味するのかは謎で、日除けのような物だと思いますが、神器のような象徴品のようにも思われます。

その神功皇后は朝鮮半島の新羅に対する出兵の際には髪型を男性のように改め「私について来い」と宣言、先頭に立って出陣、圧勝しています。この時、彼女は妊娠中で、新羅戦が終わった後に産まれたのが後の応神天皇でした。その応神天皇が産まれたとされるのが、現在の宇美地区で(産みのダジャレ)、これも大宰府の北にある土地、というか御笠地区のすぐ北の土地です。この辺り一帯は彼女に縁が深い地域なのです。後に大宰府があの場所に置かれたのと何か関係がある気もしますが、確証は無し。

この新羅出兵の目的が財政難からの略奪だった、という辺りはちょっとアレですが(本人曰く「朕、西欲求財國」。一人称は女帝でも朕である)、それでも現地での略奪、婦女暴行を禁じる命令を出してますから、この時代の人物としては先進的ではありました。ついでに助命を求める新羅の王に対し「我々の目的は財宝であり命ではない」とし、周囲の反対を押し切って許した、とされます(ただし例よって日本書紀なので“一説には”という話で浜辺で殺してしまった、という説も述べている)。この辺り、女性ゆえか個人的な性格によるのかは判りませぬが。ただし新羅が完全に制圧されるのはその後、神功皇后が出陣しなかった再討伐、百済と組んで戦った時なんですが、さすがに旅行記で取り上げる話でもないので触れませぬ。

ちなみに「日本書紀」の記述によれば神功皇后軍の圧倒的勝利にビビった周辺国、高麗、百済が一緒に降伏しちゃったとされ、ゆえに三韓征伐の名があるわけです。ただしこの時代、朝鮮半島に高麗という国は無く、高句麗の事だとすると後で述べるような疑問が残ります。さらに言えば古事記では新羅に勝って百済も軍門に下った、とだけあり高麗の名は出て来ません。三韓を討伐した、とするのは日本書紀のみです。

この点、同じ一連の戦いに関すると思われる記述が中国にある高句麗による歴史記念碑、好太王碑に残っています。
こちらにも日本側の朝鮮半島侵攻が正確な年号と共に述べられており(当然、蔑称である倭の名が使わている)、一連の侵攻が四世紀末、西暦390年代にあったのは事実だと思われます。ただし好太王碑によると、新羅が百済と倭の連合軍に攻め込まれてケチョンケチョンにされたのは事実だけど(すなわち二度目の征伐)、高句麗は翌年援軍を送って倭軍を追い払ったとされているのです。当然、高句麗が倭の軍門に下った、というような記述もありませぬ。

とりあえず事実関係としては、少なくとも新羅は日本と百済の連合軍に一度は負けている、そして高句麗、日本どちらも自らの勝利を宣言している、といった所でしょうか。



現地にあった境内案内図。櫛田神社に比べるとかなり広いです。ちなみに画面右側が表参道で、その先が那珂川方面となります。



では鳥居を潜って境内に進みませう。



でもって門に菊の紋がある事にたった今、この写真を見て気が付きました。 でもって数えて見たら、これ十六八重表菊、皇室専用の菊じゃないですか。どういった理由でここにあるのかは良く判りませんが。まあ法的にも慣習的にも問題は無いんですが、違和感はありますね。



その先に居た謎のマッチョ兄貴。古代力士像だそうで、住吉神社は相撲と縁が深いから建てました、との事。…いや、それ初耳なんですが…。眼だけ金箔のような物が貼られていてちょっと不気味。ちなみにナデナデするとご利益あるよ、と撫で牛のような説明がありましたが、あれを撫でまわすの、私はイヤだなあ…。夜中に通りかかった時、白Tシャツのマッチョな兄さんが恍惚とした表情で撫でまわしてるのを見ちゃったら下手な怪談より怖いなあ。

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