運河都市を名乗る謎の商業施設を離脱後、那珂(なか)川沿いに南下、今回の宿営地に向かいます。できれば川沿いの道を歩きたかったのですが、残念ながら運河都市から南は河岸の遊歩道が無いのでした。 しばらく南下し、少しだけ東に向かうと緑の溢れる一角が。あれが櫛田神社と並ぶ博多の古社、住吉神社でしょう。今回のホテルはこの裏手になるので、ここを見学しながらそちらに向かいませう。 住吉の名から判るように航海の神様で、その祭神は当然、筒男神(そこつつのをのかみ)、中筒男神(なかつつのをのかみ)、表筒男神(うわつつのをのかみ)の住吉三神。日本神話のパパン、イサナギさんが黄泉の国まで行った挙句に奥さんに追いかけられ帰ってきた後の禊(みそぎ)中に水中で産まれたとされる神様です。 後に戦う女帝、神功皇后にお告げを与え、海を渡った朝鮮半島の新羅征圧の戦闘に深く関わった結果、航海の神様として祭られる事になりました。当初は神功皇后の旦那さん、仲哀天皇に海の向こうの新羅侵攻を奨めたのですが、彼はお告げを無視したので筑紫(福岡)の地で殺されてしまいます。このため依り代(古代日本で毎度お馴染み女性シャーマンである)として神の言葉を伝えた神功皇后自身が戦いに赴く事になるのでした(古代の日本の神様は基本的に荒ぶる神で気に食わない奴は殺してでも排除する。この点はギリシャ神話に置ける神様連中、さらには唯一神であるユダヤ神=キリストのパパ=アッラー≒ヤハウェイに近い。というか本来神さんは親切な人類の味方ではなく恐怖による支配を行うものなのだ)。 この神社ではその神功皇后も祭神となっており、さらに新羅征伐の前に一瞬だけ登場する日本神さん界の大物、天照大神も祭られているようです。 ちなみに住吉三神合わせて向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつのをききおそほふいつのみたまはやさあがりのみこと)という日本史の中でも最長級と思われる名も日本書紀の九巻に登場しますが、他では一切出て来ず、その意味も良く判りませぬ。さらに言えばそもそも三神あわせてなぜ「住吉」なのかも謎で、日本書紀では突然この呼び名が登場します。 ちなみに古事記では「住吉」ではなく「墨江」と自ら名乗りますが、こちらものなぜ墨江なのかは一切説明が無し。これは「すみえ」と読みますから、「住吉」もかつては「すみえ」が正しかった事が判ります。同じ発音に違う字を当てただけで良くある命名です(実際、大阪の住吉区には墨江という地名が残って居る)。後に「住吉」の表記が「すみよし」と読まれるようになってこれが定着したのでしょう。 さらに道路を挟んだ向かい側に池があり、その中に島を造って参道が走ってました。池は噴水付きのデラックス版です。 この先は那珂川ですから、かつての船溜まりの後じゃないかなあ。もともと博多湾は今よりずっと内陸部まで入り込んでいたので、そこから那珂川沿いでここまで入って来れたと思われます。そして淡水域でないとフナクイムシ(船虫とは別の生き物。というか虫ではなく貝の一種である)に木造の船体を食われてしまうのです。 小型の漁船などは陸揚げしてしまえば何とかなりますが、ここから浪速に行ったり朝鮮半島まで戦争に行ったりするような大型船にそれは無理ですから、大きな河川の奥まで船を入れ、淡水によって船体に食いついたフナクイムシを殺す必要があったはず(海の貝なので淡水域に入ると生きて行けない)。 ただし古地図などで見ると江戸末期にはすでに川から切り離されているので、参道の一部に取り込まれてからもそれなりの時間が経っていると思われます。 せっかくだからこちらの参道から行って見ましょう。 石製の太鼓橋を渡って島に入ります。このすぐ先は博多駅であり、このため皆さんの通り道になってるようで、多くの人が通行中でした。 |