では福岡城の天守台(自称)に入って行きましょう。
最初に確認して置くと福岡城に天守閣があったという明確な証拠は未だにありませぬ。個人的には9割方無かったと思っており、その代わり周辺により小型の櫓があった説を取ります。この辺りについては服部 英雄さんの著作、「歴史を読み解く さまざまな史料と視角」に優れた論考がありますので、興味のある人はご覧あれ。ちなみにこの本、九州大学が史料として公開しており、今なら「さまざまな史料と視角 福岡城天守閣」などで検索すると、今回の記事と関係ある部分を読むことが出来ます。凄い時代になりました。

さて、話を天守台に戻しましょう。なにせいきなりこれです。天守台に組み込まれた門構造がありました。こんな構造、初めて見ました。天守台の北側にある鉄(くろがね)御門と呼ばれるもので、かつては石組の天井があり、その上に兵の入る櫓が置かれていました。門扉は鉄板を貼りつけた頑丈なもので(故に鉄御門の名がある)、これが二重に置かれた極めて特殊な構造の門でした。要するに、現状は似てもに似つかない適当な復元です、はい。

とりあえず1887(明治20年)までは上部の櫓も含めて全体が現存していたとされます。上の櫓部分が同年に老朽化で崩れた後、櫓の土台だった石組が天井のようになり門扉と共に残ったのだとか(風で倒れたとあるので台風か。ちなみに切腹櫓という凄まじい名があったとされる。個人的には後で述べるように情報を漏らしたら切腹の意味だと思うが)。ただし残された石組の天井と門扉も1915(大正4)年7月、周囲の石垣ごと崩壊してしまいました。

現状はその後に復元された状態ですが、御覧のように天井のような形であったはずの石組は消えたままです。門の崩壊を伝えた福岡日日新聞の記事では崩壊前の大きさとして幅約一間(2m前後)、高さ約一間半(3m前後)としているので、大きさだけはほぼ元通りかと思われます。さらにちなみに同記事によると、明治期に食うに困ったらしいお侍さんがキレイに刀を並べてここで死んでいた事があったそうな。さらにちなみにそれに対する感想が「以後気味が悪くて近づかなかった」だけであり、大正期の人心は荒んで居たいのか、当時のお侍さんは嫌われていたのか、ちょっと複雑なものがありまする(今回の鉄御門に関する情報はほぼ全て同記事による)。



天守閣の門(天守曲輪門)はこの写真のように浜松城などにも在りました。ただしあくまで天守台&天守閣の周りに置かれた石垣&塀に組み込まれた独立した門です。天守台と一体化してるというのは初めて見ました。というか他に例があるんですかね、これ。私は未訪ながら松山城とか姫路城はかなり複雑な天守閣を持ちますが、天守台に切り欠きまで造った門は無いように見えます。

ちなみにこれ、左右の石垣の上に構造物を置いて門とする例でもあります。こっちは土台が石ではなく木材ですけどね。



この門の近くから、城の南側で堀の外に出れる唯一の門、追廻門まで秘密の地下道がある、という伝承が地元にはあったそうな。直線距離で約220mかつかなりの高低差になりますが、当時の鉱山技術者なら不可能な数字では無いでしょう。ただし今に至るまで確認されてませんが。

さて、門が在った辺りを抜けて中に入るとさらに階段があり、これを登ると…



石垣で囲まれた空間に出ます。順路的には右の階段から登って天守台に入るみたいです。往時には周囲の石垣の上に白壁があったはずで、もっと閉鎖的な空間だったはず。そして別の門が左手奥にあり。



こちらは埋(うずみ)門というそうな。埋門の向こうは武器庫や鉄砲櫓などが並ぶ絶対防衛ラインのせいもあって敵はこちら側からは来ないと考えられていたらしく、段差無しであっさりと出入りができます。

ちなみにその名の通り、この門、いざとなったら上に用意した石で埋めちゃえる狭い門、朝鮮出兵時、現地の城が持っていた構造と同じだったのではないかと個人的には考えています。恐らく、この再現も適当で往時の形状とは思えませんし。ここを塞いで、天守から向こう側に降りてしまえば逃げ切れてしまいますからね。ただし、こちらに関しては古い資料がないので、その名前以外、推測の根拠はありませぬ。

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