福岡城に入れる橋は三本しかなく、その内二本が北側のお堀にありました。ここは上の橋と呼ばれる東側の橋が在った一帯です。江戸に近い方が「上」の橋ですかね。そこからよく整備された道を登って行きます。すなわち最初からゆるやかな登りになっており、水上の丘陵に城を建てているのが判ります。ただしこの道は後世に造られたもので、本来の福岡城にはこんな道、在りませんでした。

ちなみに厳密には水上にあった丘陵の島ではなく、この南にある桜坂山、赤坂山(元寇・文永の役の激戦地である)から連なる半島だったと思われます。これを根っこから切断、すなわち南側に堀を掘って切り離し島にしてしまったのが福岡城でしょう。この辺りは地形図を見れば一発で理解できると思います。そういった意味では安土城に近い発想で造られておりまする。さらにちなみに水堀を掘って島にしてしまう工法、なんとなく水道橋から隅田川まで神田川を掘ってしまった江戸城を連想するんですが、偶然の一致ですかね。個人的には長政ではなく、黒田官兵衛如水の匂いがプンプンする城だと思います。息子の方にこれは無理でしょう。

ちなみに現在、その南側のお堀は全て埋め立てられてしまったので、そういった意味では元寇時代に戻ったとも言えます。



こっちが本来の入り口、上の橋御門と呼ばれていた場所で、その名の通りここに城の門がありました。右側の石垣上の薄っぺらい壁はなんであんなの置いちゃったんでしょうかね。あの位置には門の上部構造が乗っかるはずですが。お城の入り口らしく直進できない、90度折れ曲がった構造になっています。ただし現状はこの先行きどまりで、先ほどの道から入るしかありませぬ。



そこから振り返ってみる。意外に最初の門の入り口の幅は広いです。



その一帯の石垣。…まあ、いろいろ努力はなさったのだと思われます。真正面のアイアンマンみたいな石は、石割用のクサビを打ち込む穴、矢穴が残った状態でしょう。なんであの位置で割らず、別の場所で割ってしまったのかは謎ですが。



その先で広場に出る。かなりの広さがあり、どうもかつて平和台球場があったのがここのようです。ちなみにお城時代はここに武家屋敷がありました。地図を見ると武家屋敷は堀の外にもあったので、藩内の地位によって堀の外と中に分かれて住んでたんでしょうかね。

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