■レツゴー福岡城 さて今回から福岡城に突入です。戦国ロマンはカケラもの無い江戸初期の戦闘城砦ですが、秀吉の下で闘った戦闘屋がその英知を結集させて造った世代の城の完成形を見るには、彦根城と並び最適な存在では無いか、とっております。 国土地理院地図より さて、現在の福岡城は豚骨ラーメン揺籃の地、長浜の直ぐ南に位置している矢印の先の陸の上の公園ですが、その実態は以下のような戦闘城砦でした。地図は明治13年のモノですが地形は江戸期の原型をほぼ留めています。ちなみに営所というのは陸軍の管轄下にある土地の事ですが、この時代は連隊どころか大隊もまだ置かれて無かったはず。何に使われていたのか正直、よく判りませぬ(ちなみに福岡は帝国陸軍滅亡直前まで師団の編成地になった事が無い。最後の最後に名前だけの部隊に等しい第96師団が編成された)。 福岡県立博物館デジタルライブラリより引用 筆者がこの地図を見て最初に思ったのは彦根城と同じ湿地中の丘陵の島に城を築いた完全な戦闘城砦じゃん、でした(後で述べるように厳密に島ではないのだが)。 こういった水上の城は明智光秀の坂本城に始まり、秀吉の長浜城、そして半島と湿地を利用した信長の安土城まで、織田一家による琵琶湖水上城軍団の延長線上にあると思われます。ちなみに織田家必殺水中城の完成形が豊臣大坂城だったわけですが(淀川の流れを取り込んだほぼ水上の城)、あの規模の城はそうそうは造れませんからね。この翌日訪問する小倉城もそういった面がある城の一つだったので、この辺りは関ケ原前で敵軍勢を防ぐ彦根城、同じく関門海峡前で敵を防ぐ福岡城&小倉城という共通項目があったゆえでしょう。 関ケ原合戦後の時代、一定の防衛力が求められながら同時に城下町も造らにゃならん、という条件下でこれらは理想的な構造だったのかもしれません。ここまで露骨では無いですが、江戸城も低湿地と江戸湾の水を利用して徹底的に堀で周囲を囲ってますし、それでも不安だった徳川家は水道橋から隅田川までぶち抜く神田川を造らせたわけです(ちなみに家康の入城時には日比谷一帯は入江だった。これを埋め立ててのは関ケ原の後。さらに大坂の陣の直前から一帯の埋め立てが進む。それまではかなり堅固な水の城だった。その構造はかなり豊臣大坂城の影響を受けていると思う)。 ちなみに福岡城の築城が1601〜1607年、彦根城は1603〜1606年、江戸城は1590年に普請が始まりますが、現在までに知られるような形になったのは1603年、諸大名を動員した天下普請から。よってこれらは同世代の設計と考えていいでしょう。そして徳川家はまともな城を造った事が無いので、これらは織田のオヤジの遺志を継いだ豊臣一家の仕事だろうと筆者は考えています。ホントに徳川家康は最後まで生き残ったのが唯一の取り柄ですからね。ちなみにお隣の小倉城の築城開始は1602年、これも同世代です。小倉城は別ですが、それ以外のこの世代の城造りには恐らく黒田官兵衛如水、藤堂高虎辺りが一枚噛んでると長年思ってるのですが、証拠は無し。 さらにちなみに一世代早い、1590年ごろに完成していた高松城は前世代、光秀の坂本城、秀吉の長浜城の世代の城で、恐らくその影響を受けているはず(初期の江戸城も似た構造だった気がする)。よって今は跡形も無い両城の構造を推測するには最適なものではないか、と密かに考えております。ここも一度は行って見たいんですがね。 といった感じで早速入城ザマス。 ただし福岡城は明治期にほとんどの建物が取り壊され、さらに戦時に空襲受けたりでほとんどまともな遺構は残ってません。周囲の沼地も半分以上が埋め立てられてしまって、その面影を忍ばせるのは石垣くらいです。ただしその石垣は良く残っており、往時の構造を忍ぶことは可能でした。 城のお堀は北側だけが現存するのですが、周囲からあっさり降りれてしまいます。この辺りの構造は江戸期と大きく変わって無いはずで、こういったもんなのでしょう。彦根城も似たような構造でしたし、ニンジャが来ちゃったらもまあ仕方無いよね、的な。江戸城や大坂城の防御力が異常なのです。 その先にあった記念碑。最初ミレニアムファルコン号かと思ったんですが、この地にあった平和台球場を象ったものでした。かつての西鉄ライオンズの本拠地とは知ってましたが、ライオンズが埼玉県に移動した後も、1997年まで球場は残ってたのね。というかダイエーホークス時代の当初4年はここが本拠地だったのか。初めて知りました。 |