しばらく歩きまする。途中ですれ違ったちびっこ軍団。ちなみにこの子たちも標準語で話してました。この辺りが市場街である長浜だと思うんだけど…と周囲を見回すと、 海側に妙にラーメン屋さんが集中している一角があり。ここかな。 ここでした。この奥にあるよ、という案内のようです。 これが昭和27年開業とされる元祖 長浜屋で(ただし当初は屋台だったらしいが)、いわゆる博多豚骨ラーメンの始祖とされる店の一つです。ちなみに右下の文章「家とは関係ありません」は意味が判らんなと思ったんですが、元祖 長浜「家」というラーメン屋さんが別にあり、あれはウチとは無関係、という宣言でした。この辺り、かつての浅草における人形焼をちょっと思い出す(昭和の時代から平成初期にかけて、浅草の仲見世には「元祖」と「本家」を名乗る二つの人形焼屋が存在してた。その後、本家はいつの間にか無くなっていた)。 ここでちょっと脱線。 博多ラーメンの歴史に関しては、信用の置ける史料がほとんどありませぬ。筆者が知る範囲では、このお店の社長が書かれた「元祖長浜屋 榊原きよ子著」、後は都内の老舗博多ラーメン屋、「赤のれん」の店内に置かれていた案内文、そして西日本新聞による複数の記事くらいでしょう(余談だが日本で最もラーメンに詳しい新聞が西日本新聞であろう)。 それでも博多の豚骨ラーメンを始めたのは箱崎の「赤のれん」(移転のため現存せず)と馬出の「博龍軒」(現存する。今すぐ国宝に指定するべきだと愚考する)だったと考えてほぼ間違い無いと思われます。ただし博多ラーメンの特徴とも言える替え玉、麺の固さを選べる、なとといった「文化」を生み出したのはこの長浜ラーメンと言うか、長浜屋でした。この点もほぼ間違いありませぬ。この辺り、現存する史料から「オレの考える博多ラーメンの歴史」を簡単にまとめると ■戦後、中国から引き上げて来た人が持ち込んだ豚骨スープが基礎にある。これに麺を入れるのは北部九州一帯で見られた。(長浜屋の社長本だと名古屋で知り合った台湾人に教わったとされるが、いずれにせよ中華料理の系統である) ■現在の博多ラーメンの原型を生み出したのは終戦後、屋台を共同で経営していた山平進さん、津田茂さん、の二人である可能性が高い。 ■当初は山平さんがうどんの屋台をやっており、そこに津田さんが合流して天ぷら屋台となった。その後、1950(昭和25)年ごろから新メニューとして始めたのが、津田さんが大陸時代に覚えた豚骨スープに自家製の麺を入れたものだった。これが博多ラーメンの始まりだと思われる。その後、屋台から店舗に移行するのだが、「赤のれん」を津田さんが、「博龍軒」を山平さんがそれぞれ始めた。 (ちなみに箱崎の「赤のれん」で働いていた人物が東京で始めたのが麻布の「赤のれん」。) ■それまで屋台料理だった博多ラーメンが店で出されるようになったのも、両店が最初だった可能性が高い。ただし開店の時期は諸説あるが、一部で見られる1948(昭和23)年以前説は怪しい。それはうどんの屋台を始めた時点の話だろう。多くの史料からして1952(昭和27)年以降の開店だったと思われる。ちなみに筆者は1953(昭和28)年じゃないかと考えている。 (以上は2014年10月16日に西日本新聞に掲載された記事「ラーメンのれんのヒストリー 第4回 「激戦区で愛される祖父の味 赤のれん」における山平さんの奥様へのインタビューなどによる。ちなみに東京の「赤のれん」店内にある説明だとちょっと話が違うが、ここでは博多ラーメンの始祖店、「博龍軒」を始めちゃった人の奥さんの談話の方を信用する) 以上から博多ラーメンは、赤のれん、博龍軒、そしてこの長浜屋が三位一体となって生み出したもの、と考えておりますが、今回、他の二店舗は回ってる余裕が無かったのです(博龍軒は市内中心部とは言い難い場所にある。移転後の赤のれんはホテルの直ぐ側だったのだが、何せ深夜と早朝しかホテルに居なかったので行けなかった。ただし帰宅後に確認したら夜ならギリギリ行けた事が判明。この点、今でも死ぬほど悔やんでいる)。そんな中、この長浜屋だけは何とか時間を確保して訪問したわけであります。 これがいわゆる長浜ラーメンと言うか博多ラーメンの始まりの一つ、長浜屋。1952(昭和27)年に屋台から始めた、とされるので博多ラーメンの歴史の中では後続集団なのですが、麺の固さを選ぶ、替え玉がある、という文化を生み出したのがこの店です。いやはや、感動の訪問でございます。 そしてガッツあふれ過ぎの営業時間案内。ここは目の前が福岡市の中央卸売場で、そもそもはそこで働く人達相手の店でした。よって朝が早いのですが、その後も夜遅くまで営業してるのです。ステキ。この辺り、築地魚市場で創業して鍛えられた牛丼の吉野家とちょっと似た面がありますね。 |