といった感じで展示見学は終了、次は政庁跡の公園に向かいましょう。 ざっと東西に120m、南北に250mほどの広さ。現地で見るとかなり大きいのが見て取れ、これはもう完全に西の都だよね、と思う。背後に見えてるのが大野城があった四王寺山。あの山頂部全てが城砦だったわけです。すげえな、と言う他無い規模でしょう。その直ぐ南に造られたのがこの大宰府の都となります。 既に述べたように一帯の決戦城砦化よりはやや遅れて条坊都市としての大宰府は造られたと思われるんですが、大野城のすぐ南に隣接して造られている辺り、いざとなったらそっちに避難可能な戦闘都市であり続けたように思います。 真ん中の砂地が街路、奥に建っている石碑の辺りが正殿の跡です。ちなみに正殿の後ろ側にも何か建物があったようです。 政庁入り口にあった南門の跡。先に見た国立博物館で模型にされていたのがこの門です。ちなみにこの階段が当時のものかは怪しいです。 そこから南を見る。ちなみにこの砂利道の幅は12mしか無く、この先に繋がる朱雀路はいきなり三倍幅になった事になります。時代を考えると無茶苦茶な規模でして、当時の大宰府はやはり西の都なんだよなあと思う。 |