では大宰府政庁跡の横に建てられた大宰府展示館の見学に参りましょう。ちなみに入館料は200円。 大宰府中心部の復元模型。一番奥、北端にあるのが大宰府の中心部、政庁です。そこから南に向かう大通りが朱雀通り。 この復元模型からも判るように大宰府内は御笠川あり丘陵ありの地形のため、キレイに碁盤目状の条坊都市として整備されていたとは思えない部分もあり。恐らく中心部以外はあまり整備されてなかったんじゃないか、と個人的には思っております。 一帯の地形模型。これを見て初めてああ、四方を土塁で囲めば封鎖できてしまう地形なんだ、ゆえに日本最大の羅城説があるんだ、と気がつきました。そしてこちらの解説員の方から丁寧に説明をいただき、かなり勉強になりました。感謝。 大宰府の中心部である政庁地区の復元模型。 大宰府政庁は大きく三期に渡って存在したことが発掘から判っており、この模型は最盛期、8世紀初頭から藤原純友に焼かれちゃう941年、10世紀半ばまでの姿。ただし建物の土台である礎石しか見つかって無いので、ホントにここまで豪華だったかは微妙なところがありますが…。 礎石が無い掘っ立て小屋式の建物があっただけの7世紀後半(すなわち例の白村江の戦で負けた直後)から8世紀初頭までの第一期から始まり、この模型にあるような豪華絢爛、西の都と呼ぶべき全盛期の第二期、それが941年の藤原純友の乱によって焼かれて(焼けた跡が発掘で確認されいるので燃やされてしまったのは確からしい)、その後再建がなされた12世紀前半までの第三期に分かれる形で、この政庁は運営されたようです。この最後の時代は例の平家がここに逃げ込んだ時期に重なっており、なんらかの関係があるのかも知れませんが詳細は不明。 ただし既に述べたように、13世紀末の1266年ごろから元寇までにやって来た高麗&元の使者は大宰府に入ったとされており、「高麗史」にもその名が見られます。さらに日本側も水城と大宰府を最終防衛線にしようと考えた様子があり、第三期以降も何らかの施設は残っていたはずです。それがどんなものかは全く判りませぬが。 発掘で出て来た石敷きの溝、恐らく排水路と思われる部分を保存した展示。平安期、すなわち第二期のものと見られるそうな。 |