水城の下に埋められた檜製の巨大導水管の一部。博多側の外堀と大宰府側はこの導管で繋がっておりました。これは結構よく判らん部分なんですが、それはまた後ほど。 この後訪問する大宰府政庁にあった南門の復元模型。 礎石しか残って無いので、ホントにこんな門だったかは甚だ怪しいですが、少なくとも相当な大きさの構造物だったのは事実。やはり大宰府は西の第二の都だったんだよね、と思う。ちなみにこの門を含んだ政庁一帯は 天慶4年(941年)の藤原純友(すみとも)の乱に巻き込まれて焼け落ちてしまっています。純友の乱の時、朝廷軍は大宰府に拠点を置き、ここから出撃して破れて占領されてしまったのでした。最終的に反撃に出た朝廷軍に追われる形で純友は大宰府を焼き払い撤退、博多に逃れてそこで破れるのです。ただし本人は逃げちゃうんですが、最期は伊予で捕まり殺されたと思われます(なぜかこの辺りの明確な資料が無いのでその最期は謎が多い人)。 さらに入り口の横の床には一面に一帯の航空写真が。 やはりここは最終決戦要塞だよな、と思ったので軽く見て置きましょう。右上に見えるデカい山が四王寺山、あるいは四王寺山脈などと呼ばれる山岳地で、ここに恐らく日本史上最大の山城、大野城がありました。ただし日本書紀時代の「城」は朝鮮や中国と同じく城塞都市を指す事が多いので、単なる戦闘要塞では無く、非常時には避難可能な政庁都市としての設備があった、あるいは平時から一定の人が住んでいたと思われます。 その大野山城から左に伸びてる土塁が水城で、その多くが現存しています。写真で見ると短いですが、実際は現存部分だけで約2q前後在ります。ついでに水城の左側は中途半端に終わってるように見えますが、これは開発が進んで住宅街になってしまったからで、実際はこの一帯も一定の高さを持つ丘陵になっています。さらにこの先の一部にもかつては堤がありました。福岡方面から南下して来る敵がそう簡単に大宰府に入れないような構造になってるわけです。元寇の時、大宰府を拠点にしようとした説があるのは、そういった背景からです。 大野山城の麓にあるのが大宰府の中心、政庁跡。大宰府は平城京などと同じ構造を持つので、政庁があるのが最北端であり、ここから南側、画面だと左下方向に2.5q、写真で見えてる山際付近まで広がっていました(東西南北2.5qの正方形だったと思われる)。ちなみに大宰府天満宮は大宰府を名乗ってますが、実際はその外側、東北の外れに位置します。すなわち大宰府の鬼門を守る位置であり、この点は江戸城の北東に位置する東京の湯島天神も同じです。 ついでに大宰府の敷地内には西鉄の都府楼前駅、二日市駅、西鉄五条駅と三つもの鉄道駅があり、その大きさがなんとなく判るかと。 入り口の横には大伴旅人さんの写真が。菅原道真閣下と並んで大宰府に来た大物政治家の一人ですが、ご健在だったんですね。てっきり1292年前に亡くなったものだと思っておりました。 その先が展示室。かなり暗くて、こういった展示の博物館は久しぶり(アメリカ空軍博物館以来)。演出なのか、人に見せられないような何かがあるのか、よく判らず。 |