では本丸&天守一帯から西側に向けて移動開始。
西側は軍の施設もそれほど大規模な破壊をやらなかったようで、主な歴史建造物はこちらに揃ってます。




内堀を超える南側の門、桜門に至る途中にあるのが、有名な大阪城の石垣の巨石群。この巨大な一枚岩が、大阪城でも最大の蛸石。表面積は59.43uだそうな。その妙な名前の由来は諸説あるようですが、画面手前、左下の蛸のようなシミが原因説あり。
弾痕のように見える穴は切り出しの時のノミの跡ですかね。

ちなみに秀吉は信長の安土城建設の時、巨石搬入の指揮を、丹羽、滝川と共に取ってるので(信長公記)、その時の経験が生きてたりするんでしょうか。


こちらが桜門。幕末の1868年に焼失してますが、その翌年には早くも再建された明治期の復元門らしいです。

往時の姿をそれなりにキチンと再現してるらしいので、壁の銃眼に要注目。白壁の丸い穴が目立ちますが、よく見るとその下、石垣との間に小さい四角い穴があります。これが前回、天守閣周辺で見た石垣の上にある三角溝の銃眼で、このように上に白壁を乗せるのが正しい姿です。



南側の内堀は水のない空堀でした。これは江戸期からそうだったもので、なんで空堀なのかは判らんそうな。
秀吉の大阪城でもそうだった、という説明板が現地にありましたが、それが確認できる資料って現存してましたっけ?




秀吉をご神体とする豊国神社が、桜門を出た先にあります。本来は京都に本社があって、徳川期には廃絶されていたのが、明治になって復活、その後、秀吉のゆかりの地にいくつか見られるようになった神社です。徳川家康を祭る東照宮の豊臣バージョンですね。

ちなみに本願寺は朝廷を仲介として信長と和睦、この大阪の地から引き払うのですが、その時、失火なのか放火なのか不明ながらほとんどの建物を焼失してしまいました。このためか信長はこの地に興味を示してません。あの人がこれだけの土地の価値を理解してなかったとは思えないんですが、和睦から本能寺で大フィーヴァーまで二年近い時間がありながら、何の動きも無いんですよね(四国出兵のための兵站庫にしていたようだけど)。結局、この秀吉がその本拠とし、以後、地元では阪神タイガースと人気を二分する事になります。

ちなみに実在の人間を神格化する場合、権現、あるいは明神を名乗る事が多いのですが、どうも秀吉さんは本名のままらしいです。ついでにゲーム機の処理能力が低い時代のポリゴンのような妙に四角張った鳥居も気になりますが、詳細は不明。

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